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かんなり姓の由来

a:17983 t:4 y:7 1892・1678・2259・2155・2464
2010・8・23
作成中です。完成するまで時間は掛るとおもいますが、気長に致します。宜しく!

最新更新2015-08-27 (木) 12:59:22

『金成・神成・嘉成・加成』姓の発生・由来

かんなり姓の由来

※ 姓氏家系大辞典抜粋・・1602・1617・1768・1769頁より

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 姓氏家系大辞典によると、
 金成姓は栗原郡金成邑に起る。葛西氏の族(桓武平氏)と云う。
 神成姓は金成、加成と通ず。三者を併せ見よ。
 加成姓は嘉成に作り金成、神成と通じ用いられる。前條、金成氏 の族裔かと云う。
 嘉成姓は桓武平氏葛西氏の族。神成、神成、加成の條を参照。

 一般的に『金成・神成・嘉成・加成」姓の由来は以上の様に云われているが、果してそ
うなのか、と云う疑問が起き、分布、系図、地名、資料などから検討する。


『金成・神成・嘉成・加成』姓等の都道府県別分布

≪都道府県別分布図≫

「金成」・(かんなり・かなり・かねなり)姓の都道府県別分布図はこちら

注: 分布図作成データは、NTT全国電話帳(2008・8~2010・6)使用した。

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≪金成・かんなり≫姓の発生について

※『金成・かんなり』姓の都道府県別分布・・・図―1 

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 北海道 16、青森県 1、岩手県 3、宮城県 14、福島県 1、群馬県 2、
 埼玉県 2、神奈川県 2、東京都 7、富山県 1、大阪府 1、佐賀県 1、合計 51

金成・かんなり』姓の分布を見ると、姓氏家系大辞典に記述されるように、宮城県の発祥であるのがわかる。 また、北海道の数値が宮城県より多いのは、宮城からの移住者だけなのか?・・・・

ⅰ) 宮城県栗原郡旧金成邑に由来する、仙台・金成家
ⅱ) 岩手県北上市立花地区吉内の金成家
ⅲ) 北海道幌別(現・登別)の金成喜蔵氏の金成家・幌別ユーカラ・語り部の系図こちらから

 現在分かっている事、以上三か所の地区で、それぞれが個々に金成姓を称している。よって、北海道の数値が多いのは、ⅰの移住者+ⅲによる。

※ 岩手県の金成姓

 岩手の金成姓について、岩手県姓氏歴史人物大辞典(631頁 角川書店発行)の記述によると、
 『金成 かんなり 北上市立花地区吉内に、金成氏がある。隣接の口内町金成や、宮城県金成町からの移住かとも思うが未詳。
 屋号、「金成」の金成良造家の家伝によると、菅原系で、もとは管成と書き、明治になってから金成と書いたという。なお、寛政十二年(1800年)の立花村村参宮人同行和帳には、「金成の菅原文太」と「金なり喜之助」の名があり、金成集落に菅原姓と金成姓があったことがわかる。家紋は梅鉢。』 以上、原文

 文中の金成集落は、立花地区吉内に金成集落の地名はなく、口内町金成の地を指すものと思う。(註・『金成・神成・嘉成・加成』地名考を参照。)
 又、菅原姓と金成姓が併在していたと云われるが、現在、岩手県・金成姓の分布を見ると、北上市に3戸あり、併在していたとすれば、この数字は少なく、「金なり喜之助」は、この時代まだ、一般に苗字を名乗るまれで、「金なり」は地名を表しているもの思う。即ち「金なりの喜之助」の意であろう。
 金成良造家の口伝の通り、管成⇒金成に明治期、戸籍編纂の時に表記を変えたのみであろう。
 以上の事から、栗原郡金成氏とは全く別系統を示すものと云える。

※ 北海道の金成姓

北海道の金成姓・幌別ユーカラ伝承の系譜こちらから

 北海道の金成姓は、明治3年(1870年)「苗字許可令」・同5年戸籍法(壬申戸籍)に基づき実施され、幌別アイヌの巨酋カンナリキが、カンナリキの父は和人であったから、カンナ(再)アリキ(来)とつけたのがもとの名で、苗字をつける世になって、カンナリキを金成喜蔵と名乗り、それで一門が金成姓を称するようになったのが、北海道の金成姓の始まりである。・・・アイヌ叙情詩・ユーカラ集1・ 5頁参照
「カンナリキ」はアイヌ語で『神の再来(カンナアリキ)』を意味する

  銀のしずく降る降る、金のしずく降る降る・・・と、アイヌ神謡集を編纂し、夭折した天才小女・知里幸恵の記念館完成遊びに来てね。 

※ 宮城県栗原郡の金成姓

 通説では、金成姓は天正七年(1579年)金(安倍)近江重直(号・大和)は葛西氏仕え金成城(金成南館)城主となる。 天正九年(1581年)重直・隠居し、子内膳に家督を譲る。内膳(初代・金成)後に金成姓を称する。
 と云われている。

 金成姓は永和三年(1377年)金俊継・俊網・親子が、葛西氏を離れ、大崎左京太夫詮持に仕え、百余町の禄で当時大崎領だった栗原郡金成邑に入り、荒崎柵(荒崎城)に居住した事により、金成邑と地縁を結んだ金氏は、俊継・俊網親子から荒崎城・小迫城を拠点に代を重ね重直の時、金成南館(金成城)に入ったと理解するのが順当と思う。当地は葛西氏・大崎氏が入り乱れた地域で、その時々によって大崎氏・葛西氏と替えたものと類推する。金成姓は天正九年内膳が家督を継いだ時に金成姓を称したと云うが、金成姓はその以前から使われていたものと考えられる。

 それを示すものとして、宝徳二年(1450年)・宝徳合戦の金成右京大夫政実、薄衣状の金成氏などが歴史の断片に顔を出す。

 纏めると、金成姓の発祥は、金氏十七代・金俊継・子俊網が金成邑に居住し、金成邑と地縁を結んだのが始まりで、子孫が地名を姓として称したと同時に、他者から地名を姓とし称されていた。
 更に、一般的に云われている金成氏の出自は、葛西の末葉と云わるが、これらの経緯から見ると、葛西氏と血縁関係は存在しないと云える。

 ※ 更に詳細は金氏の系譜金成氏系譜などを参照 
 

≪金成・かなり≫姓の発生について    

※『金成・かなり』姓の都道府県別分布・・・・図―2

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 北海道 2、青森県 3、山形県 2、宮城県 6、福島県 358、栃木県 4、
 千葉県 10、茨城県 61、群馬県 4、埼玉県 21、神奈川県 28、東京都 158、
 静岡県 6、
 愛知県 5、三重県 3、兵庫県 1、和歌山県 1、合計 673

 分布図を見ると、「金成・かなり」姓は、福島県が全体の53%を占めており、東京都は23%、茨城県9%を併せると85%。この中で東京都は各地からの移住者で由来と関係が無い。圧倒的多数を示す、福島県の小名浜・金成(かなり)は、国内に「金成・かなり」と称する地名は、島根県東出雲町の金成(かなり)山古墳・山口県山口市の金成(かなり)山・福島県いわき市小名浜の金成(かなり)の三か所の一つ、集落を形成する地名は小名浜の金成だけで、その地名は「皮なり」から「金成・かなり」と変化し姓の由来となった。

≪小名浜・金成(かなり)姓の発祥は≫

 嘉暦四年(1329年) 陸奥国 岩城郡金成村地頭の金成又三郎 
           が、東国人鎌倉番人に所領を譲り状。

(出典:地名由来・いわき市資料か?)

 暦応三年(1340年) 三月二十三日  岡本隆師広軍忠状
          「暦応三年、岡本加成隆広は菊多庄大波多山の合戦に相馬親胤に属
           して戦っており、そこでは、岡本加成氏と名乗っており、以後金
           成などもみえる。」・・(出典:日本歴史地名大系 七 福島県の地名より)

 応永二年(1395年) 祐公等鶴岡八幡宮修理料納状
          「応永二年、鎌倉鶴岡八幡宮修理のため陸奥国に段銭が賦課され、
           同年三年一〇日金成三郎四郎知行分の当村内一町の公田から五五
           〇文が納入されている。」・・・(出典:日本歴史地名大系 七 福島県の
           地名より)

 寛正七年(文正元年:1466年) 二月一日   妙弥道秀安堵状
          「金成氏合戦の賞として本知行を安堵されている。」・・・・
           ・・・(出典:日本歴史地名大系 七 福島県の地名より)
 
 いわき市指定有形文化財(彫刻) 
  銅造阿弥陀如来坐像一躯  光西寺・所有  いわき市鹿島鳥町御代字
 明和四年(1767年)
          「銘文によると、宝暦二年(一七瓦二)禅法律師の発願によって喜
           捨がはじめられ、明和二年(一七六五) には江戸日橋の村田治
           右衛門、上州伊勢崎の竹内荘兵衛、小名中島の金成六平太等の尽
           力があり、江戸神田の御鋳物師木村将監藤原安忠等によって制さ
           れ、明和四年(一七六七)八月に完成した。」
           (福島県教育委員会・編)

 岡本金成氏は、鎌倉期の諸々の古文書に金成姓を使用しているが、系図には金成姓に名乗り変えた形跡は見当たらない。どこの岡本か区別するため、地名を以て岡本金成と名乗ったもの思う。

 小名浜金成村、岡本氏の系譜は、福島県史 第一巻によると、  寛喜二年(1130年)祖父小山朝政から菊田庄湯かま郷の地頭職を譲りうけた小山長村の系統を引くものである。と伝えられる。別紙、岡本系図を参照下さい。
 
 金成(かなり)姓は金成村地頭職の者が地名を以て、金成姓を名乗ったのが始まりと考えられる。又、福島県に金成(かなり)姓を称する人々が350余家ある。岡本氏の庶流が金成姓を名乗り広がっただけでなく、明治3年(1870年)の平民苗字許容令により、地名を称した人々が居たろうと類推する。
参照・岡本系図はここから

≪金成・かねなり≫姓の発生について

※『金成・かねなり』姓の都道府県別分布・・・図―3

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 北海道 5、青森県 1、山形県 2、宮城県 4、福島県 22、栃木県 5、
 千葉県 3、茨城県 5、埼玉県 9、神奈川県 4、東京都 45、新潟県 1、
 愛知県 3、大阪府 2、福岡県 2、熊本県 1、合計 73

 金成(かねなり)姓は、分布を見ると福島県に多くあり、金成(かねなり)の由来は不詳であるが、福島県の金成(かなり)姓の多さから類推するなら、金成姓の読み方が(かんなり)・(かなり)と、金成と云う文字から中々読みずらく、(かねなり)と云う方が馴染みやす。これは私の経験を含めて云えます。
 よって、一つの考えとして、金成(かんなり・かなり)姓の変化したものと類推で出来ます。
 更に、日本人の場合、自分の住んでいる土地から離れ、他の土地に行って住む時、読みを変えずに当てる漢字を変える場合と、漢字を変えずに読み方を変える場合があり、(かんなり)・(かなり)から(かねなり)に変化したとも考えられる。
 又、地名なに由来するかどうかは不詳で、これからの調査を待たれますが、金成(かねなり)と云う地名は、茨城県にあります。
 『金成・神成・嘉成・加成』地名考を参照して下さい。

≪神成・かんなり≫姓の発生について

※『神成・かんなり』姓の都道府県別分布・・・図―4

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 北海道 81、青森県 60、岩手県 18、秋田県 125、山形県 2、宮城県 10、
 福島県 10、栃木県 6、千葉県 15、茨城県 6、群馬県 51、埼玉県 27、
 神奈川県 23、東京都 149、新潟県 4、富山県 1、岐阜県 2、静岡県 3、
 愛知県 7、大阪府 1、山口県 7、広島県 3、鹿児島県 2、合計 613

『神成・かんなり』姓の都道府県別分布を見ると、東京都149・北海道81と多いが、これは他府県からの移住で姓の発生源にはならないと云える。
 又、同じく青森県60・福島県10は、秋田県からの移住が始まりと伝えられている。これらを除き、『神成・かんなり』姓の発生を探る。

 一般的に『神成・かんなり』姓は、『金成・かんなり』の分かれと云われ、更に、葛西の末裔とも云われているが、その詳細は不明である。
 今この分布図を検討することにより、由来不詳と云われる中、群馬県51の『神成・かんなり』の由来の伝承を見つける事が出来た。これは、地名と密接な関係をもっていた為である。
 他の府県は由来不明でその手がかりもない。

≪群馬県の神成(かんなり)姓 の発祥は≫

《群馬県の神成姓》
※ 群馬県内の分布は、
   群馬県富岡市・・・・・4軒
   群馬県安中市・・・・・23軒
   群馬県高崎市・・・・・16軒
   注、データーはNTT電話帳に基ずく

 始めに、神成の地名について考察する
 群馬県富岡市神成・近郊に神成山と云う地名がある。この神成の地名は、中野谷神社由緒に、
 中野谷は古来より一之宮貫前神社の式年遷宮に、竹と縄を納める慣例があり、往古、咲前神社より一之宮貫前神社へ御遷宮の際の神事に関係ありとする注連引原、明戸の地を有する。

 明戸の地名説に「大古信州諏訪明神健御名方命香取明神軽律主命(ママ)ノ命ヲ奉ゼズ命大ニ憤リ自ラ大将軍トシテ之ヲ征ス鹿島明神之ニ副タリ榎下明神(原市町ニアリ)及ビ咲前明神北甘楽郡神成字藝明神之ニ属シ荒船山ニ出陣セル時暫時鷺宮ニ滞在シ後注連引原ニ移リ払暁此地ヲ出デ明戸ニ至リテ夜明ケレバ之ヨリ明戸トハ云フナリト天ノ戸明ケシ意味ニモヤアラン」とある。

 字藝明神は現・群馬県富岡市神成1178の字藝神社で、創立は天武天皇の時代で(672~686年)と云われてます。

 次に、文献にみる神成姓は
 ≪群馬県甘楽郡史(原題・群馬県北甘楽郡史)≫  439頁 本多亀三 著  昭和三年
 上記、郡史に「小幡家一族之事・・・・小幡図書景定上野国甘楽郡宇田城主後住神成於下総国討死。
 (此人の子孫神成氏と稱せりと何かの書に記たるを見たることあり。而して今同村に神成を氏とするもの村の西にありという。著者傳聞のまゝを記しおく)」と記載あり。

≪群馬県古城塁址の研究 下巻 山崎 一 ≫   154・155頁
 431 宇田城の項抜粋
 宇田城は甘楽大夫友政の城とも言っているが、上野古城塁記、箕輪記等には宇田城主小幡図書景純(又は景定)は小幡重貞を、上杉謙信、長野業政に讒し、国峰城を奪ったが永禄六年(1563年)、武田信玄に逐い落されたとある。小幡伝来記の小幡系譜には「小幡図書は神成に住し、下総の国で討死」としている。
   
 群馬県の神成姓は
 群馬県の「神成」姓は小幡図書景定、神成邑に住し、下総国で討死に後、子孫帰農し「神成」姓を名のったと口伝がある。年代は秀吉の天正十三年(1585年)の天下静謐令の発布・関東・奥羽惣無事令以降、小幡氏の末裔が帰農する時、地名を姓と称したと類推する。

小幡氏傍系譜・参考系図

≪秋田県の神成(かんなり)姓の発祥は≫

 秋田県の「神成」姓は125軒と多く、その由来は阿仁の支配者、嘉成一族に由来すると伝えられ。
 秋田県の「神成」姓は、慶長七年(1602年)安東愛季の常陸(三春)に転封に伴い、阿仁の嘉成一族の内、同道した重兵衛、九郎兵衛以外は暇を出された。
 阿仁地方は佐竹氏の支配となったが、その支配に反抗し「阿仁一揆」と称される武力蜂起を起こす。
 一揆鎮圧後、斬首・獄門にさらされた者に加成專右衛門、同四郎兵衛等の名が伝えられる。
 一揆後、一族の多くは帰農し「神成」姓を名乗ったと伝えられている。又一部の者は青森に移住した。
 即ち、阿仁嘉成一族は慶長七年(1602年)を境にして、秋田・阿仁地方、青森、福島・三春、の三流に分かれる。

『秋田県神社名鑑』
 七倉神社・・・・・・70頁
 鎮座地   北秋田郡上小阿仁村小沢田字独活平114
 祭 神   菅原大神・天照皇大神・大山祗大神・越大彦神
 由 緒   創立応永二年(1395年)四月二十五日
        応永二年城主神成三七山城国北野天満宮より城内に勧請す。七倉山泉涌寺縁起に曰く、抑も小阿仁小沢田山続有七宝峰号七倉此所有館城主号神成三七人皇一〇〇代後小松天皇御宇、応永二亥歳山城国北野右近馬場大自在神宮城内勧請号七倉山泉涌寺奉崇氏神比所名水涌出故也。則菅相亟之有御像依而国家豊饒武運長久子孫繁昌。その後ときうつり神成子孫改伊藤となり正保元年(1644年)に至り御神像をつくり村の鎮守に崇敬す。明治六年四月郷社に列する。

 明治年間陸軍省より明治二十七・八年戦役戦利品を下賜される。例年旧三月二十五日に祭祀していたのを、四月二十五日と改む。明治四十三年六月十七日知事の許可を得、上小阿仁村小沢田無格社神明社、古四王神社、大山祇神社を合併する。
 大正十三年一月十三日神宣饌弊帛料供進神社に指定される。 

《秋田城之介分限帳》
  嘉成三七・・・・七倉城主 安東家の直領を管理する三分一代官

《秋田家侍領地分調》
  嘉成三七   (小沢田) 百九十石余
 注 太閤検地の終わった翌年、文禄元年(1592年)の調べ

 ≪考 察≫
  永二年(1395年)から禄元年(1592年)の間、小阿仁小沢田・七倉城主は神成姓と称し、秋田家侍領地分調では嘉成姓。即ち、この事実から類推すると『神成・かんなり』=『嘉成・かんなり』と称していたと云える。秋田県の『神成』・『嘉成』の自出は不明である。『嘉成・かなり』姓の秋田県項を併せて考察するのが望ましい。

≪神成・かみなり≫姓の発生について


※『神成・かみなり』姓の都道府県別分布・・・図―5

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 北海道 2、茨城県 2、群馬県 1、神奈川県 1、静岡県 1、合計 7

 神成・かみなり」姓の自出は不明である。
「神」は「かみ」、「神主・かんぬし」の「かん」と読むことから「神成・かんなり」から「神成・かみなり」に変化したと類推する。

≪嘉成・かなり≫姓の発生について

※『嘉成・かなり』姓の都道府県別分布・・・・図―6

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 北海道 3、岩手県 1、秋田県 22、福島県 1、千葉県 1、茨城県 29、
 埼玉県 1、神奈川県 6、東京都 40、三重県 1、奈良県 1、和歌山県 5、
 合計 111

 「嘉成・かなり」姓は、秋田県22、茨城県29と非常に興味のある分布をしている。又、和歌山県、奈良県、三重県と分布がありこの点も興味をそそられる。
 これらの中で、古文書等が散文的に残されているのは秋田県の「嘉成・かなり」姓のみである。

≪秋田県の嘉成・かなり姓の発祥は≫

  資料に表れる嘉成・加成姓
 『秋田藩家蔵文書・奈良岡文書・三通』・・秋田県立図書館・・・岩手県史より
 
「南部勢存之外加人数をも候て、何かへと触廻候処、如御望之萱森判官被打捕、今日之御働之儀、諒以板垣河内城内驚目候、白地の黒鶴之さし物、敵中に見得渡り、貴処今日之御ふるまひ感入事候。卯刻より働諸勢つかれ候由、尤なる事存候。長く為草臥之高橋運介参候間、乍此上、貴殿も御越可有之存候。いつれ御帰陣之刻めて珍重、恐惶謹言。」
  卯月十八日
   奈良坂層惣五郎殿               嘉成右馬頭重盛「花押」

「以飛札中述候、南部一類北弾正始、厥表江多勢を卆馳参、貴殿之威儀者雖相違有之間敷と、為相談檜山まで相詰、実風をも承候へと依る被仰付、此筋ニ滞中事候、萱森判官をハ奈良岡惣五郎鑓を合、剰打捕無比類働、又ハ其筋静謐之品々条、手柄と申ハ不珍事といふなれとも感入候、則今朝以使札達上聞候、委曲者跡より可申入候
  恐々謹言。
   卯 月                         秋九郎
    加成右馬頭殿                      茂 季「花押」

「今度米内沢塚之台、九平九郎○一類北弾正、鹿角大湯五良兵衛、方手志摩、上法師修理介、萱森判官□□小右衛門、企徒党会戦刻、無比類御働、剰判官為鑓合、波打捕、前代未聞ニ候、自今以後得其聞不可有隠者也、
    天正拾七年                   嘉成右馬頭
     四月十八日                     重 盛「花押」
    奈良岡惣五郎殿

 文中、南部勢のうち、九平九郎は九戸九郎であろうか、信直は九郎と称した。この頃 大膳大夫と号している。北弾正は南部家側で伝える大館城守側の北主馬尉であろうか?
  ・・・・・・(岩手県史3より)

※ 嘉成常陸介資清(康清)
 安東軍の「比内侵攻・永禄5年・1562年」・「鹿角侵攻・永禄8年・1565年」に参陣
 天正16年(1588年)に勃発した「湊騒動」では、「一、仙北のカドヤト云口ノ押へニハ・・・・大アニハ賀成常陸、子右馬頭、小アニハ松橋美濃ヲサシ置キ・・・」・・・・・(湊檜山両家合戦覚書)
 天正19年(1592年)同じ阿仁衆「風張城主・松橋刑部盛光」を攻撃、阿仁全域を支配下に置く

※ 嘉成右馬頭貞清  資清の子
 天正18年(1590年)南部氏の支配下に置かれた比内の奪還に成功するが、戦闘で討死に

※ 阿仁(嘉成)播磨
 天正10年(1582年)「荒沢合戦」の条で「此の時の武将に内平右衛門、大高筑前、加成播磨・・・」
 天正15年(1587年)「唐松野の戦」の条では、「一、其先仙北北沢領の淀川と云う所の城を愛季切取りたまう、之により戸沢と秋田、合戦数度に及ぶ、此の時の大将嘉成播磨、鎌田河内、武威を振う・・・」 

《秋田城之介分限帳》
 嘉成重兵衛・・・・資清か?
 嘉成三七・・・・七倉城主 安東家の直領を管理する三分一代官

《秋田家侍領地分調》
 嘉成重郎兵衛 (米内沢) 千七百石余  嘉成播磨 (本 城)  百二十石余
 嘉成三七   (小沢田) 百九十石余  嘉成弥十郎     二百三十石余
注 太閤検地の終わった翌年、文禄元年(1592年)の調べ

《秋田家文書》
  
 常陸介・右馬頭・播磨・九郎平衛・三七・弥四郎等・左京介・兵庫介

《奥州永慶軍記》に記述される加成姓と抜粋
  巻 六
※ 秋田山北境合戦の事
 「秋田・戸沢の確執」の項
  加茂(嘉成)常陸介、阿仁に同播磨守

 「唐松野合戦」の項
  是は阿仁の一族、吉成右衛門(加成右衛門・討死にか)
 
 「秋田勢の敗戦」の項
  加成藤蔵・同右京兵衛

※ 土崎湊合戦の事
 「湊友季の謀叛」の項
  加(吉)成播磨守・同多兵衛・同右馬頭貞清

※ 船越・北野合戦の事
 「秋田実季脇本に敗る」の項
  加(吉)成右馬頭

※ 秋田城之介、再び土崎湊を攻めるの事
 「北野合戦」の項
  加(吉)成常陸介資清・同右馬頭貞清・同十兵衛尉・同十蔵

※ 猿ヶ鼻合戦、大川左衛門討死の事
 「猿ヶ鼻合戦」の項
 「・・・・唯今出し兵、葛西が末葉、阿仁の住人加成常陸介が一子右馬頭貞清、十八歳。
 先日北野の合戦に敗軍して、某一人の恥辱とこそぞんじ候らへ・数度の軍に手柄し給ふなる涌本殿と組み、冥途・黄泉の物語に仕候らはん。と馬を西頭に立て和たり」

※ 秋田城之介浅利城を攻るの事
 「浅利長岡城攻」の項
  米内沢常陸介資清・同右馬頭貞清・阿仁播磨守
 「檜山勢の退陣」の項
  嘉成常陸介嫡子右馬頭貞清・嘉成貞清

※ 秋田城之介、比内反攻の事
 「阿仁加成勢の奮戦」の項
  阿仁の城主・加成播磨守・同十蔵・同運之助・米内沢の城主同右馬頭
 「加成常陸介の力戦」の項
  ・・・嫡子右馬頭はじめ、究竟の者ども廿余騎討死す。・・
  上記述にある嘉成一族の名を整理すると、常陸之介資清・右馬頭貞清・播磨守・右衛門・藤蔵・右京兵衛・多兵衛・十兵衛・十蔵・運之助・等である。

※ 佐竹氏の支配に反抗し「阿仁一揆」と称される武力蜂起を起こす。一揆鎮圧後、斬首、獄門にさらされた者に、加成專右衛門、同四郎平衛等の名がある。 

※ 慶長七年(1602年)安東愛季の常陸に転封に伴い、同道した重兵衛・九郎兵衛以外は暇を出され、一部の人は津軽へ、又、一揆後は一族の多くは帰農し神成姓を名乗ったと云われている。

『秋田県神社名鑑』

 米内沢神社・・・・・・・53頁
 鎮座地   北秋田郡森吉町米内沢字寺の上1-1
 祭 神   大己貴神・少彦名神・天照大神・火産霊神・応神天皇・素盞鳴尊・建御名
       方神・宇気持神・木花佐久夜姫神・日本武尊・猿田彦神
 由 緒   不詳であるが、その昔太平伊勢守秀家社殿を寄進。大永二年(1522年)大
       阿仁城主本名葛西氏嘉成常陸再建。その後寛文年間(1661~1672年)の
       松岡市良左衛門をはじめ数度の修復を施す。明治六年村社となり、明治
       四十一年磯前神社、神明社等十七を合併し、同四十三年社号を米内沢神
       社と改称する。以後旧米内沢町本郷支郷の鎮守として奉斎されている。

 山 神社・・・・・・55頁
 鎮座地   北秋田郡阿仁町水無字畑町東裏239―3
 祭 神   金山毘古大神・天照皇大神・倉稲魂大神・武雷大神・火産霊大神・多
       記利姫命・今木大神
 由 緒   文正年間(1466年)阿仁鉱山の受山師等の創立と伝えられる。文化年間
      (1804~1817年)に至り阿仁鉱山総鎮守に定められ、藩主佐竹家の崇
       敬篤く例祭には藩主の代参あり、明治七年郷社に列せられた。

 七倉神社・・・・・・70頁
 鎮座地   北秋田郡上小阿仁村小沢田字独活平114
 祭 神   菅原大神・天照皇大神・大山祗大神・越大彦神
 由 緒   創立応永二年(1395年)四月二十五日
        応永二年城主神成三七山城国北野天満宮より城内に勧請す。
        七倉山泉涌寺縁起に曰く、抑も小阿仁小沢田山続有七宝峰号七倉此所
       有館城主号神成三七人皇一〇〇代後小松天皇御宇、応永二亥歳山城国北
       野右近馬場大自在神宮城内勧請号七倉山泉涌寺奉崇氏神比所名水涌出故
       也。
        則菅相亟之有御像依而国家豊饒武運長久子孫繁昌。その後ときうつ
       り神成子孫改伊藤となり正保元年(1644年)に至り御神像をつくり村の
       鎮守に崇敬す。明治六年四月郷社に列する。
        明治年間陸軍省より明治二十七・八年戦役戦利品を下賜される。例年
       旧三月二十五日に祭祀していたのを、四月二十五日と改む。明治四十三
       年六月十七日知事の許可を得、上小阿仁村小沢田無格社神明社、古四王
       神社、大山祇神社を合併する。
       大正十三年一月十三日神宣饌弊帛料供進神社に指定される。 

 八幡神社・・・・・47頁
 鎮座地   北秋田郡鷹巣町脇神字地切66
 祭 神   応神天皇・火結神・大山祇神・大名持神・天照皇大神・水波売神・宇加
       御霊神
 由 緒    河辺町豊嶋城に居た畠山重村が森吉町本城に居城を移し、その没後、
       主従関係にある嘉成右馬頭の謀計奇襲にて畠山民部忠久が十二代目で落
       城。長男は修験となり、脇神山八幡寺なる祈願寺を創立し、初代大行院
       尊忠と称した。創立の年月は未だ調査不十分なるも、宮司畠山家の系
       図より推量して、戦国時代末期である。神仏分離により八幡神社となり、
        明治六年八月村社に列し、同四十三年五月脇神郷中十社を合併。
        昭和四十一年、本殿弊殿拝殿をヒバ材にて新築し、同六十年福嶋石の
       階段自動車道を整備し、同六十一年屋根を銅板としたが、全部氏子崇敬
       者の協賛金である。

 田代山神社・・・・58頁
 鎮座地   北秋田郡田代町早口字田代山119
 祭 神   白髭大神(猿田彦大神と同神)
 由 緒    青森県境近くに位置し、田代連山の主峰田代山(1178m)の頂上に
       鎮座し、山の神・田の神・水の神・作神の守護神として秋田県北地方・青
       森県津軽地方・岩手県北内陸地方に至る広汎な信仰圏を持ち、北は北海道
       ・青森、南は山形、西は岩手・宮城と東北五県の山並を展望し得る一大霊
       山で昭和五一年県立自然公園に指定されている。
        近江国比良山比良明神を本社とし、社伝古記によれば古代の鎮座を伝
       え、仁寿二年(852年)円仁慈覚大師の再興、弘長二年(1262年)以前
       綴子神宮寺開基常覚院再建、建武元年(1334年)陸奥兼出羽守北畠顕
       家卿山麓の長慶金山を開発稼行当社を再建、宝暦10年(1760年)佐竹
       藩鉱山取締山師伊多波武助(新士分、伊勢国出身、岩瀬住)金山再開発
       当社を再建する。
        明治六年無格社に列し、十数度の修理改築を経て昭和四十年新築し
       たが、六十一年原因不明の火災で焼失、六十二年新築再建した。
        九合目は有史以前の噴火口跡とされ、一帯に一一〇余りの地塘(直径
       二~三〇m、深さ二〇㎝~二m)が散在、これを田代の田ッコと称し、
        この中に生育する水草のミツゾカシワ、ミネハリイを苗ッコ、稲ッ
       コと称して豊凶作占をなす信仰で、特に散供堤では諸々の人生占いを
       行なうことになっている。

≪考 察≫
   上記の文書等を時系列で整理する。
   建武 元年(1334年)・・・・北畠顕家卿
   応永 2年(1395年)・・・・小沢田城主 神成三七
   文正年間 (1466年)・・・・阿仁鉱山
   大永 2年(1522年)・・・・大阿仁城主、本名葛西氏、嘉成常陸
   永禄 5年(1562年)・・・・比内侵略   
   永禄 8年(1565年)・・・・鹿角侵攻
   天正10年(1582年)・・・・荒沢合戦・・・・加成播磨
   天正15年(1587年)・・・・唐松野の戦・・・大将嘉成播磨
   天正16年(1588年)・・・・湊騒動・・・・・賀成常陸、子右馬頭
   天正17年(1589年)・・・・嘉成右馬頭重盛
   天正18年(1590年)・・・・嘉成右馬頭貞清  奪還の時、討死
   天正19年(1592年)・・・・風張城攻撃 嘉成資清
   文禄 元年(1592年)・・・・秋田家侍領地分調
                 嘉成重郎兵衛(米内沢) 千七百石余  
                 嘉成播磨(本城)    百二十石余
                 嘉成三七(小沢田)   百九十石余
                 嘉成弥十郎      二百三十石余 
   慶長 7年(1602年)・・・・安東愛季・三春へ転封・同道した重兵衛・九郎兵衛
                 のみ阿仁一揆・・加成專右衛門・同四郎平衛、斬首
                 帰農。

≪福島県の嘉成姓・かなり姓の発祥は≫

 福島県の嘉成姓は慶長七年(1602年)安東愛季の三春転封に始まるが、嘉成姓から神成姓に替わった。

 三春町史 第一巻より
※ 【正保二年(1645年)八月三春入部万覚書】・・・・・109・110頁
 表紙・「正保仁年八月五日宍戸御立三春へ御入部之万覚書」
  騎馬御供之行列
  ・・・・加成太郎右衛門・・・
※ 【秋田俊季侍分限帳】・・・・・・・・117頁
  一三百石  岩谷 大 膳
  一 同   神成 九郎兵衛
  ・・・・・・・・・・・・・

※ 【春士秘鑑】・・・・・120頁
   凡 例
  一巻ハ以家柄次台第
  二巻 始以有同苗二三家集之末ハ医以時礼席之順
  三巻至五巻 以奉干当家之前後大略集之
  六巻 古往奉仕之士当時無其家或死亡或出奔而以絶系之分集之
番  姓 本国  本苗  被官  家 禄  屋敷地 巻  摘 要
24 神成 出羽      秋田  一五〇  山 中 六  宍戸所替の時津軽へ間も
                             なく御家へ奉仕

 三春藩 神成氏系図ここから

※ 【万治二年(1659年)家中給人知行高扶持切米高覚】・・・・・268・269頁
 表紙・「万治二年 御家中給人御物成金井御切米取惣帳」
  御家中給人知行高井御扶持切米高之覚
 一三百石  加成 太郎右衛門

※ 【三春藩諸役人年次別任免控】
  寛文頃(元年=1661年)
  先 筒     湊 伊右衛門・・・・・326頁
   〃      神成太郎右衛門
   ・・・・・・・・・・・・・
   〃      神成太郎右衛門
  此組元禄十四年諸組江割崩ニ成ル
  長柄組三     九野五郎兵衛
   〃       神成太郎兵衛
  
  年号不知
  弓組二十五人   神成太郎衛門

  延宝五丁巳(1677年)
  先 筒(切通) 神成太郎衛門 

※ 【貞享元年(1684年)礼席知行諸役井寺社御礼】・・・・・・282・285頁
 表紙・「貞享元年 甲子 五月五日写之礼之次第知行諸役井寺社御礼名乗付」
  大書院着座之者御雑煮一銚子
  一弐百石  加成太郎右衛門季莫

※ 【三春藩諸役人年次別任免控】
  正徳四甲午(1714年)
  不明 表御武具役   神成杢助・・・・・・332頁

  享保三戊戌(1718年)
  不明 表御武具役   神成奥之丞・・・・・332頁
  
  宝暦三癸酉(1753年)
  1・12 表御武具役  神成太郎右衛門・・・・337頁

  宝暦八戊寅(1758年)
      青貝持槍  神成九郎兵衛・・・・・338頁

  明和五戊子(1768年)
      大目付   神成佐膳・・・・・・・341頁

  文化二乙丑(1805年)
      御近習   加成祐次郎・・・・・・352頁

  天保七丙申(1836年)
      御近習   神成寅蔵・・・・・・・368頁

  安政六己未(1859年)
      御武具奉行 神成津盛・・・・・・・376頁

  万延元庚申(1860年)
      大目付   神成津盛・・・・・・・376頁

  文久元辛酉(1861年)
      大目付御免 神成津盛・・・・・・・377頁

※ 【文政八年四月(1825年)家中屋敷坪数】
  三百七拾八坪 畑九拾分(歩)
            神成太郎右衛門・・・・382頁

  元禄四未年(1691年)○引
  三百拾八坪 畑弐百弐分(歩) 畑荒本田弐斗九升四合
            神成太郎右衛門・・・・386頁

  三百九拾弐坪 土手百六拾分(歩)
            神成太郎右衛門・・・・387頁

  四百拾八坪  三百三拾三坪平地  八拾五坪土手
            神成寅蔵・・・・・・・390頁

  二百六拾坪 土手五拾五分(歩)
            神成太郎右衛門・・・・390頁

  四百六拾坪
            神成太右衛門・・・・・393頁

  三百三十七坪 土手百七歩
            神成金次・・・・・・・394頁
            神成太郎右衛門・・・・394頁

※ 【慶応三年(1867年)家中礼席】・・・・・・289・290頁
 表紙・「御家中御礼席」
  秋田広記組
    神成 津盛
  十三人扶持 秋田御譜代 竜穏院  神成津盛・・・・・298頁

※ 【明治二年(1869年)分限帳】・・・・303・311頁

     営繕掛
一 拾三人扶持  養父・神成太郎右衛門    神成津盛・・・・・311頁
           養母・交野十兵衛娘     当卯十五歳
           実父・浪岡右近
           実母・秋田勘解由娘

     歩 兵
 一  三人扶持   父・神成伴盛       神成陽蔵・・・・・・315頁
            母・大高涼輔二女     当丑十六歳

以上のことから見えて来たものは、嘉成姓から神成姓に移行したと云う事である。

≪郡山市田村町細田嘉成との関係は≫

 今まで「嘉成」と云う地名は知られていなかったが、「福島県郡山市田村町保細田」に「嘉成」と云う地名があり、更に神成神社もあります。この細田は三春藩秋田公領ですが、三春藩秋田公は家臣に地方知行制度をおこなっていないので、この土地を給付された家臣はいない。藩士・神成氏とはかかわりが有りません。

 では、何故、
 「嘉成」は何と読むのだろうか?一般的に姓の場合は「嘉成・かなり」と読むが、細田嘉成の場合は「嘉成・かんなり」と読みます。詳細については、かんなり地名考を参照。

 又、この地名の由来については、古老によると、今から440年前頃(元亀・天正年間頃)移って来たと代々伝えられており、多くの古文書は読めず、明治期の当主が書き写した、文書によると「神成与右衛門は土地を与えられ、帯刀を許された。力丸の先祖は谷田川箱屋より来た。神成の一族の惣領は弥惣次と云う」(現代訳)と云われるように、嘉成地区は「力丸」姓と「村上」姓の方しか住んでいません。

神成氏・古文書写しここから

 更に、古老によると力丸のもとの苗字が「神成」で「神成神社」は神成家の氏神で現在は、嘉成地区の神社とし祭礼が行われている。この「神成神社」の祭神は「金山毘古命」・勧請・天正19年9月、「旧社号」金位神(明治2年8月・現社号に改称)と伝えられている。

 又、「嘉成」の文字を使用するようになったのは比較的に新しく、江戸時代になってからからではないかと云われていた。

  これらの事を要約すると、
 谷田川箱屋に居た、神成与右衛門一族は、元亀・天正年間頃、当地に住み、氏神を祀っていたこの地は神成と呼ばれていたが、江戸期に文字を「嘉成」と改称した。

 疑問に思う事は、誰から、この地を与えられ、帯刀を許されたか?
 谷田川箱屋と神成氏の関係は?
 疑問は残るが、ヒントになるだろう。

≪茨城県の嘉成姓について≫

 嘉成姓の分布を見ると、嘉成姓は29と東京都を除くと秋田県の22を上回り、非常に注目に値する。
 茨城県の場合は、古文書などによる直接的資料はなく推測する手掛かりも少なく詳細不明。

≪考 察 秋田・福島・茨城の嘉成・神成姓を総合的に類推する≫

 秋田県・福島県・茨城県の嘉成・神成姓を古文書・分布等から仮説を組み立てて見た。
 米内沢の嘉成(神成)一族は、地元の郷主でないとする伝承が米内沢神社の由緒書にある事。即ち、嘉成(神成)氏の本名(本姓)は葛西氏とあり、葛西氏の末裔である事は事実とした前提で考察する。
 そうすると、嘉成(神成)一族は何処から来たのか ?
 葛西氏と云うと、一般的に思い浮かべるのは、奥州葛西氏でしょう。奥州葛西氏と云うように、奥州でない葛西氏が存在する。もともと、奥州葛西氏は、鎌倉時代、武蔵国・下総国の御家人・豊島清元(清光)の三男で下総国葛西御厩を所領していたことから、葛西姓を名乗ったと云われている。葛西一族の中で奥州に行かず、下総国に残り、常陸国に勢力伸ばした者がいたのだろう。嘉成資清(康清)は常陸・常陸介と称するように、常陸国(茨城県)と地縁がある事をうかがわせる。
 では何故、常陸国から米内沢に、南北朝時代、建武元年(1334年)秋田から津軽にかけて起きた叛乱、北畠顕家卿に従い平定に参軍。その後阿仁鉱山開発などの為、土着する。これは、安東氏との関係から推察出来る。即ち、当初は主従関係でない。嘉成氏が郷主なら、安東氏一族と何らかの絆があるのが当然である。
 ここで『嘉成姓』について考えると、文字より音読みに注意すると『かなり』と云う音である。
 この『かなり』と云う音は、鉱山関係者に古い昔から伝承されていたと思う。現在、東出雲町に存在する「金成・かなり山古墳」・周辺町村から出土する鉄器遺物、現・山口市大内御掘地区に在る金成山、周辺は、山崎古墳等、弥生・古墳時代遺跡に囲まれ、更に、平安時代820年~950年にわたり鋳銭を行った周防鋳銭司跡がある。この様に、古代の鉱山・鋳造・加工に係わる近くに「金成・かなり」と呼ばれる地名が存在し、その呼称は伝承されていたと思う。
 それが、『嘉成』姓とどう係わるのか?
 『嘉成』姓の分布を見ると茨城県(旧・常陸国)秋田県22を超えて、29と多い事。
 福島県、郡山市田村町細田嘉成で述べたように、『嘉成』の地は現在・福島県に属するが、茨城県『嘉成』姓の詳細な分布は、常陸大宮市 1、大子町 14、日立市 4、邦珂市 9、石岡市 1で、主に大子町と邦珂市に集中しており

「兼成・かなり」・「加成・かなり」・「管成・かんなり」・「可成・かなり」・「叶成・かなり」姓の都道府県別分布図はこちら

※『兼成・かなり』姓の都道府県別分布・・・・図―7

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 北海道9、青森県 8、大阪府 1、合計 18


 「嘉成・かなり」姓は、秋田県22、茨城県29と非常に興味のある分布をしている。又、和歌山県、
奈良県、三重県と分布がありこの点も興味をそそられる。
 これらの中で、古文書等が散文的に残されているのは秋田県の「嘉成・かなり」姓のみである。

≪秋田県の嘉成姓≫

  資料に表れる嘉成・加成姓
 『秋田藩家蔵文書・奈良岡文書・三通』・・秋田県立図書館・・・岩手県史より
 「南部勢存之外加人数をも候て、何かへと触廻候処、如御望之萱森判官被打捕、今日之御働之儀、諒以板
垣河内城内驚目候、白地の黒鶴之さし物、敵中に見得渡り、貴処今日之御ふるまひ感入事候。

※『加成・かなり』姓の都道府県別分布・・・・図―8

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 秋田県 2、宮城県 1、埼玉県 5、神奈川県 2、東京都 9、石川県 2、
 富山県 1、徳島県 1、合計 23

※『管成・かんなり』姓の都道府県別分布・・・図―9

 

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山形県 3、神奈川県 1、東京都 2、合計 6

※『可成・かなり』姓の都道府県別分布・・・図―10

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 熊本県 1、合計 1

※『叶成・かなり』姓の都道府県別分布・・・図―11

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 愛知県 1、三重県 2、合計 3
未完です。

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