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2011・8・27・改

最終更新日2011-08-27 (土) 14:48:00

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武将系譜辞典はここから

 始めに、武将系譜辞典・葛西家人名録(管理者:川部正武氏)の収録人数は六八〇〇余人との労作には敬意を表します。

※ 武将系譜辞典・抜粋

 武将系譜辞典:葛西家人名録、44―46頁、金氏の項に

 金 俊清12951367俊長子時俊孫定俊曾孫為俊玄孫秀時耳孫為直昆孫為冬仍孫為縄雲孫
  為時裔安倍為雄流

 金野弥四郎兵庫周防仕北畠顕家
  俊継13241392俊清子孫太郎兵庫
  俊秀俊継子
  俊網13551417俊継子彦三郎新左衛門仕葛西大崎詮持
  重俊13861454俊網子
  重治14121475重俊子又十郎
  重光14431512重治子
  重信14711538重光子

 定俊====1397俊清子金野孫次郎右馬仕葛西高清
  俊国定俊子金沢勝次郎
  国吉俊国子勝次郎右馬
  国支国吉子虎次郎金野豊後
  国定国支子昆野小次郎?定住?今野右馬
  国家国定子金野次郎八郎豊前
  是鹿国家子次郎金野豊後右近
  重鹿是鹿子金野勝三郎主馬
  持鹿重鹿子
  信鹿持鹿子
  政鹿是鹿子金野与七郎
  邦季国家子金野三十郎右門
  持家国家子金野十三郎右膳
  俊祐国支子千田伊織嗣
  為国国吉子芋川嗣史

  持俊=====1428定俊子俊継子?彦次郎右馬
  俊安13641430定俊子俊継子?狼河原孫四郎周防
  俊直13971459俊安子弥次郎右馬
  俊冬14291489俊直子弥四郎兵庫
  俊真14651522俊冬子孫次郎右近
  信俊14931559俊真子弥次郎
  俊賢15091570信俊子越後
  俊永俊賢子次郎左衛門和泉
  為永====1642俊永子惣左衛門
  為盛====1653為永子金野平右衛門
  為道為盛子伝右衛門
  為次為永子金野惣左衛門
  俊成俊賢子金野次郎治部
  安国定俊子赤田五郎
 
  俊時====1359俊清子米倉孫三郎右京俊房
  俊通俊清子四郎
  時信為行流為直流筑前
  為基時信嗣十三秀則子
  
  時斉知義子時宗孫為弘曾孫為俊玄孫秀時耳孫為時裔為定流安倍為雄流次郎左衛門
  時明時斉子大右衛門
  為光時明子
  時親為光子出羽
  時弘時親子金野弥三郎出雲
  時尚時弘子
  尚義時尚子
  為勝尚義嗣時清子
  為重為勝子
  為長為重子
  時徳為長子
  為世為勝子金野与右衛門
 
  時清時弘子 
  時雄時清子
  時房為光子帯刀
  時依為光子
  勝時時斉子次郎
  正行時斉子
  勝由知義子
  時景右京
 
  則綱
  秀綱利幹裔時盛流
  大学秀綱子
  内膳今野
  広綱内膳子金野助九郎
  為家延徳頃
  信綱
  信忠備中
  信就
  信則====1609信就子小三郎津軽主水
  信久信就子
 
 金政実金爲時裔右京宝徳頃
  松千代丸政実子
  重直安倍近江大和天正頃
  紹実重直子内膳右近
  土佐紹実子
  隼人土佐子
  重直隼人子
  甚蔵重直嗣佐藤甚之丞
  彦兵衛甚蔵子
  善右衛門土佐子
  彦次郎重直子天正頃

 今野義秀義頭子義長孫義隆曾孫義勝玄孫義澄耳孫里見義綱昆孫
  義成
  義春 
  貞康
  貞行
  貞秀
  貞仲
  貞有
  貞成
  康貞
  貞則
  貞澄小次郎右馬
  貞春

 米倉高村久村子光村孫―禎曾孫
  持村薄衣清村子?玄蕃応安頃
  繁村持村子
  村持
  清村
  義持
  定持
  尚持
  良持====1558
  持長良持子左衛門金
  持清持長子仕伊達政宗寛永頃
  定次持清嗣小国孫左衛門子
  行友右近
  以上原文です。

※ 検 証

≪検 証・1≫ 今野義秀から貞春の項を検討する。

  今野義秀・・・・・耳孫里見義網昆孫とある様に、この系譜は、里見氏の系譜で、気仙郡司・金氏の系譜とは異なる。
 
 それでは、何故今野氏を名乗る様に成ったか。
 義網の母が安倍氏で有った事から、義網は今野弾正左衛門と称し、千厩築城に住した事により、千厩・金沢・金 
氏(今野)と混同されたものと云われている。
 結論:千厩築城主、今野義秀氏は、葛西家臣ではあるが金氏今野とは異姓である。

 出典:岩手県史 第二巻 900頁 千厩今野家系図
 出典:岩手県史 第二巻 895頁 千厩金沢金氏系図
 注:金氏の系譜、系図参照

≪検 証・2≫ 米倉高村から定次の項を検討する。

 米倉高村・・・・・孫一禎曾孫とあるが、米倉系図には昆一禎、藤原秀衝の臣、薄衣居住を祖としている。

 昆と称している事から類推すると古くは金氏と係わりが有るだろうが、その詳細は不明。金氏との係わりは、「金家系譜」によると、金兵庫助俊清の三男、金右京俊時(延文四卒六二・1359年)薄衣郷の米倉に居住、米倉氏を称し、その跡を薄衣清村の二男持村が相続したとある。持村の室は米倉俊時の女であった。金氏と薄衣氏の系譜は錯雑して判別し難くなっている。

 伝えによると、永禄元年(1558年)月日不詳、気仙本吉方面において、騒擾のあった伝えがある。本吉郡津谷郷の米倉又三郎良持は参陣討死したとある。本吉郡津谷へ転任は、康暦あるいは嘉慶年中であろうと云われている。

結論:金右京俊時は米倉氏を称したが、その後の系譜は、錯雑し判別がむずかしいと云われている。(岩手県史より)

出典:岩手県史 第二巻 963頁 伊達世臣家譜巻之十一
出典:岩手県史 第二巻 897・898頁 今野氏系図
注:金氏の系譜、系図参照

≪検 証・3≫ 定俊から為国までの項を検討する。

 千厩・金沢金氏系図によると、定俊(応永四七一卒・1397年)年代は1326年から1397年代の人です。
 又、文中の邦季は国季の書き間違いと思う。

 結論:定俊の項は千厩・金沢金氏系図によるもと思います。
 
 出典:岩手県史 第二巻 895頁 
   千厩・金沢金氏系図 奥玉村金一弥所蔵系図 ㋔奥玉村今野為雄所蔵系図参酌

 注:金氏の系譜、系図参照

≪検 証・4≫ 持俊から安国までの項を検討する。

 持俊は定俊の子年代は1359年―1482年卒69歳。持俊・俊安は俊継の子かと疑問符がつく事からみて、この系譜は金野氏系図によるものと思う。

 結論:下記の出典による。

 出典:岩手県史 第二巻 867・898頁 金野氏系図 東磐井奥玉村 金野為雄所撰≪明
    和四年撰(1767年)≫
 出典:岩手県史 第二巻 1095頁 登米郡狼河原 金野氏系図  奥玉村金野為雄所蔵(安倍姓金野氏系譜)
 注:金氏の家譜、系図参照

≪検 証・5≫ 則綱から信久までの項を検討する。

 結論:出典不明、確認出来ず。

≪検 証・6≫ 金 俊継から重信までを検討する。

武将辞典では、
 安倍為雄―為時―為縄―為冬―為直―秀時―為俊―定俊―時俊―俊長―俊清―俊継

 ――俊綱――重俊――重治――重光――重信
 ――俊秀(俊継子)

 俊継1324―1392
 俊綱1355―1417
 重俊1386―1454
 重治1421―1475
 重光1443―1512
 重信1471―1538

 金成政実――松千代丸・・・・(宝徳年間頃)

 重直――紹実・内膳―――土 佐――隼 人―――甚蔵重直―――甚蔵
   ――彦次郎      ――善右衛門
                       
 と、俊綱の跡を「重俊・重治・重光・重信」と記載している。

《検 証》

 日本姓氏歴史人物大辞典(岩手県姓氏歴史人物大辞典)では
 安倍為雄―為秀―為長―吉連―為定―為時と諸説あり、今回この点は検証しない。

 次に金氏諸系図では、
 安倍為雄――為時・・・・秀時――為俊――時俊――俊長――俊清――俊継
               ――定国         ――定俊
                            ――俊時
                            ――俊通

 ※ 岩手県史第二巻・・・・600頁より
 岩手県史に、「気仙郡には、古来から安倍姓の金氏が居り、郡司を世襲していた。然るに、金右近太夫俊長(元徳二年四月十日卒年67・・1330年)を最後に郡司の名は系譜にも消えている。更に俊長から俊清・俊継と続き、その嫡系の家が不明となっている。」と記載されている様に、俊継の跡は一貫した系譜はない。

 俊継は、「金野氏系図(東磐井郡奥玉村金野為雄所蔵・明和四年撰1767年)」によると、
「俊清の子・主馬 兵庫 孫太郎と云い、明徳三年(1392年)卒六九歳と記載されている。」
 正中元年1324年生まれ
 注 年齢は数えである。
 諸金氏の系図は、著者編集の「金氏の系譜」を参照下さい。

 ※ 遠野市史・・・遠野郷戦記・宝来合戦に、
「・・・宝来二年(1450年)秋八月葛西の領主、閉伊郡を掠めんと欲し気仙東山の軍兵を先立て遠野攻めるの時、葛西の家臣、金成右京太夫政実、守儀在るところの谷地館を囲む・・・」

 葛西氏家臣の気仙郡東山の金成右京大夫政実が気仙勢を率いて、秘かに気仙から綾織に侵入して宇夫方守儀が居る綾織谷地館(元綾織町二日町)を攻撃・・・しかし守儀勢の守り堅く、凌ぎ時間を稼いでいる内、隣接の兄、鱒沢館主(上鱒沢)鱒沢守綱、さらに宮森館主(宮寺鹿込)宮森主水らが援軍に駆けつけ守りを固めた。

 攻めあぐねた葛西勢は山谷川を堰止め、水攻めを試みた。二カ月に渡る籠城戦の決着をつけたのは、達曽部館主の達曽部民部と稗貫氏臣の大迫掃部が大兵を率いて来援した。戦局は一変し、金成政実は宇夫方氏の郎党大野十郎の矢に倒れ総崩れとなった。この時、金成政実の一子松千代丸、十三才初陣とも伝えられるが、敗走途中、遠野方に討たれた。
 後に、松千代丸の母親がこの地を訪れ、その墓を見ると悲しみあまり、淵に身を投げたと伝えられる。

 ※ 金成町史・・・・701頁
 『永和三年(1377年)金俊継葛西氏を去り大崎詮持に仕え百余町を賜り金成村に居る。・・・石越村史より』
  俊継、53歳の時と推定される。

 ※ 葛西氏家臣団事典  柴桃正隆著書  
    金成項 出典 「金成氏の系図」 仙台中田 金成逸郎家所蔵

 金成氏の系図は、

         初代天正七年  二 代
         金成城主   金成を称す   三 代    四 代   五代甚蔵
金爲時・・金俊綱・・・重 直―――内 膳―――土 佐―――隼 人―――元 直―――重 直
    永和三年  隠居号大和   右近太夫    最上家臣   伊達家臣   寛文七没
   金成荒城館住        天正十八没落   元和元没   寛永二没     ―――女
             ――彦次郎               ―――貫 経 
                                ―――女
                                ―――女
                                ―――彦兵衛

 注 詳細は金成氏系図参照

 以上の文献から指摘できることは、永和三年(1377年)に金成村居住していたのは、金成町史では、「金俊継」と云い、金成氏の系図では「金俊綱」と云う。この両者の関係は、石越村史によると、

 ※ 石越村史・・・・・・668頁
 『・・・・○四年八月金右京直安卒ス年七十九子加賀嗣ク直安ハ近江重長ノ子ニシテ天文二十三年九月故アリ郷里ヲ出テ伊達郡等ヲ経歴シ後チ本村羽龍ニ来リ住ス弟助十郎信俊ハ葛西晴信ニ仕フ元亀二年七月晴信大崎氏ト佐沼ニ戦フ信俊戦功アリ気仙郡四千刈ノ地ヲ賜ハルトイフ其先兵庫允金為雄貞観十三年奥羽県令ニ補シ気仙郡横田村ニ住ス世々気仙郡司タリ七代爲時八源頼義ニ仕ヘ安倍貞任ヲ討ツ戦功アリ采地七千餘町ヲ俊継ノ時葛西詮清ニ仕フ裔孫俊網ニ至リ永和三年葛西氏ヲ去リ大崎左京太夫詮持ニ仕ヘ百餘町ヲ賜リ金成村ニ居ル』
 注 前後の文脈から四年は、元和四年(1618年)

 この石越村史によって『金俊継』と『金俊網』が繋がると云う事は、金氏の系譜と金成氏の系譜が繋がる事を意味する。だが、金俊網の出生・死亡当の年代は、系図に現れていない。又金成氏の系図に於いても、俊網から俊直まで年代は欠落しており、その詳細は不明である。

 これらの事をふまえ『武将辞典』に記載されている疑問点を検証する。
 岩手県史に収録されている『諸金氏の系譜』は組織的に研鑚され信頼度は高く、金氏系図の調査もれもないと思うが、『武将辞典』では金俊継以降を次の様に具体的記載している。

1) 俊継――俊網――重俊――重治――重光――重信
     ――俊秀

2)俊継 明徳 三年卒六九歳 (1392年)
  俊秀 俊継の子
  俊網 応永二四年卒八三歳 (1417年)
  重俊 享徳 三年卒六九歳 (1454年)
  重治 文明 七年卒五五歳 (1475年)
  重光 永正 九年卒七〇歳 (1512年)
  重信 天文 7年卒六八歳 (1538年)

 以上の様に具体的な記載は、気仙の金・金野諸氏の系図に伝えられているのは、俊継迄で、それ以降記載がない。これは、金俊継が、葛西氏を放れ、大崎家臣となって永和三年以降金成村に居住する事になった為である。

 ならば、金成村に居住した金俊継の系譜はと云うと、それは金成氏の系譜と繋がる。だが、金成氏の系図には、俊網以降重直迄の約200年間空白となっており、その間、宝来合戦の金成政実、薄衣状の金成氏などが現れているが、詳細は不明である。

 筆者が参考にしたものは、岩手県史が金・金野氏系図について史実と併せ、信頼性も高い。金成氏の系図については、戦国大名・葛西氏家臣団事典、仙台叢書・伊達世臣家譜 第三巻 百五十二 金成項、金成町史、石越村史等です。

 又、重俊から重信迄は丁度金成氏系図の空白期間に合致する。更に、俊継の子俊秀は金・金野・金成諸系図に現れていない。

 これらを疑問に思い、『武将辞典』管理者・川正武氏に不躾と思いながらも出典に付いて問い合わせしましたが返事は頂けませんでした。

 氏は日本史学を収めた専門家との事ですが、氏が参考資料とした内、本題に関連するものは、各家系譜・各種辞典・各都道府県市町村史などと思いますが、これらの資料から出てくるとは思えません。
 よつて、結論は、信頼性に欠ける。

2010・12・26 金成民雄作成

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