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金成氏系譜

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2010・8・23

最新更新2015-08-27 (木) 14:49:38

金(安倍)姓・金成氏の系譜
仙台郷土研究会のご案内

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※ 気仙郡 金氏系譜・金成氏の系譜 
・・・・・安倍為雄から幕末金成氏の系譜・・・・・

≪デジタル・仙台城下絵図≫
仙台城下絵図延宝6-8年(1669-1680年)頃・宮城県立図書館・叡智の杜

仙台・金成氏の系譜

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栗原郡金成邑・金成氏関連参考文献

※ 戦国大名  葛西氏家臣団事典   柴 桃 正 隆 著

 P196~198に金成氏の項目あり
 118   金 成 氏                   栗 原
金成城(金成南館)栗原郡金成町
 金成氏は金氏安倍族。気仙郡司金爲時を以て遠祖とする。金爲時の後裔、俊綱(金彦三郎、新左衛門)が、永和三年(1377年)四月、葛西家を離れ、大崎左京太夫詮持に仕え、采地百余地を賜わって。
金成邑と金氏の結縁はこの時発生したものと思う。金成村「風土記」に、金成城には久寿年間より文治年間まで金売吉次兄弟が居り、南館には弟吉内が住み、郭内に鎮座する【金田八幡社】は産金に由来する神社だとの伝承がある。金成の地名はそれによって発祥したと考えられる。
金売吉字次の故事と産金技術者金氏の往来の、二つの産金関係故事。【金成】の地名に産金のダブルイメージが感じられる。

 永和元年からその後にかけての金成邑金氏の動向は全く不明である。元亀天正頃には金成南館には大崎家臣、千葉右衛門四郎平胤清が入っていたが、天正元年三月四日葛西氏に降り、同五年九月三迫地方が悉く葛西領に帰属するに及び、金氏後裔、安倍近江重直が代わって往来し同七年(1579年)四月、金成城主となった。
これが葛西家臣金成氏の事実上の祖である。近江重直は天正九年隠居して大和と号し、荒崎城に移り、更に小迫城に移った。家紋は松川菱。

 重直(大和)に二子あり長子内膳は跡を継ぎ、次子彦次郎は遠野城主遠野孫三郎と横田城に戦った時(年不明)討死した。
 天正九年、二代内膳が金成城主相続。内膳は金(安倍)姓を改め、地名を以て金成を称し、のちに金成右近太夫と改名した。天正十八年栗原郡森原山陣に金成右近とあるのはこれである。(葛西真記録)
 金成風土記に東館清浄院書出として、剣一振、長サ八寸三分、奈良行久作、右ハ当村南館主金成内膳様御奉納之由申伝候事とある。また雲南天神社御相殿は同南館主金成内膳が天正八年に勧請したもので
「天正十八年庚寅秋八月葛西家没落ニヨッテ邑主金成内膳落魂ノ後ト雖モ祭田寺領ヲ収メ別当宥遍恭シク三尊ヲ以テ之ヲ御正体トシ金田寺清浄院ノ道場ニ奉安ス云云。延宝三年竜宝院承栄書上」と見える。・・・注 魂・・・云の部は原文、白である。

 金成氏は重直(大和)、内膳(左近太夫)、土佐三代にして、天正十八年の没落期に入り沈淪。内膳は天正十八年の豊臣仕置軍に抗して討死した者として、金成館主金成右近太夫、畑館主畑対馬などの名が見える。
 三代土佐の請に、金成館陥落後、親子とも平城主岩城常隆の家臣となるとある。土佐はその後最上義光の家臣に転じ、四代隼人(彦兵衛)の代に最上家か改易(元和八年)となり同九年伊達家に御鷹師衆として出仕し、伊達家臣となった。

金(安倍)近江重直
 金成氏祖。天正5年秋、三迫地方は葛西領に属し、天正七年四月、前任者千葉四郎右衛門平胤清に代わって金成邑に入来、金成城主となる。同九年隠居して大和と号し荒崎城に移り、のち小迫城に移る。
同城は小迫邑観音閣王門南統にあったという。

金成内膳
 二代当主、直重嫡子。のち右近太夫。天正十八年宗家没落に当たり、栗原郡森原山で討死にしたとも、子土佐と共に岩城氏に随身したともいう。その裔は伊達家臣となる。

以上 原文

※ 角川日本姓氏歴史人物大辞典 4   

宮城県姓氏家系大辞典        (編集者・宮城県姓氏家系大辞典編集委員会)

P593~594に金成・かんなり・かなりの項目あり。

【1】葛西氏の家臣に、栗原郡金成(金成町)の領主、金成氏がある。気仙郡(岩手県)
 郡司金爲時の後裔と伝える。(葛西氏家臣団事典)
 文明元年(1469年)の薄衣状には、金成・柏山・黒沢らの野心により富沢が切腹させら
 れた次第が記されている。金成は大崎に近く、金成氏は大崎氏にも仕えている。

【2】仙台藩家臣に、先祖を金成土佐とする金成家がある。鷹師衆。高祖は平安初期の気
 仙郡司であった金爲時という。爲時の後裔重直(大和)は葛西家の家臣で栗原郡金成村
 (金成町)金田城南館に居城した。その跡は嫡子の内膳紹実が継ぎ、さらにその跡を土
 佐が継いだ。(畑宝領屋敷二階堂家系譜)
 土佐は天正十八年(1590年)の金成城落城後は父とともに磐城郡(福島県)の平城主磐
 城常隆師に仕えた(金成系譜)。

  のち、土佐は最上義光に仕え、天童加成村(山形県)に住み加成と改めた。土佐の跡
 を継いだ隼人は最上義光に仕え、のち伊達政宗の代の元和九年(1623年)に、一〇貫
 文で仕え正宗の命で金成に復姓した。隼人の長男重直は別家を立て、子孫は広間番士。

  隼人の跡は佐藤甚之丞の子甚蔵が継いで鷹師として仕え、寛文七年(1667年)に子の
 彦兵衛が継いだ(家臣録)。のち、同家は、
 吉兵衛― 吉兵衛―彦兵衛―甚蔵―八十八―長之助―金冶―長之助と続き、金冶の代に
 古川市から桃生郡赤井村(矢本町)に移った。また、別家した重直の子孫金成三郎は赤
 井村長を務めた。

【3】仙台藩家臣に、藤原姓で、【2】の金成甚蔵の次男六平(七平)貫経を祖とする金
 成家がある。平士。
 一〇六石。貫経は寛文七年(1667年)に二両四口で小姓頭書配役となった。のち右筆
 などを務め、貞享三年(1686年)に一〇六石余の禄となる。貫経の跡は直諒―直株―
(金成氏直次男)―直明―直信(氏家玄格直一次男)―直光と、継ぎ、その跡は文化十三
 年(1816年)に直邦(岩崎親茂次男)が家督を継ぐ(家臣録・世臣家請・世臣家請続
 編)。直邦の子大之助は遠田南方大肝入役を務め、幕末に没した。

【4】仙台藩家臣に【2】の金成土佐の次男金成善右衛門を祖とする金成家がある。鷹師
 衆。三十石。善右衛門は最上家に仕え、伊達政宗に召し出され、三両四人扶持で鷹師組
 として仕えた。万治元年(1658年)、子の善右衛門が継いだ(家臣録)。のち同家は
 成時―利成―善右衛門―善太夫―善十郎―善七―恭蔵と続き、その跡を継いだ善左衛門
 は明治十一年に志田郡長となった。

※ ≪ 薄 衣 状 ≫      岩手県史 第二巻 657~661頁    

薄衣状原文はここから
※ 金 成 氏
 この状は、文飾誇張に過ぎて、文意の通ぜぬところが多い。『伊達正統世次考』はこの書状を引用し考証を加え、「今按ズルニ、薄衣状ト称スル古書有リ、書体偽作ニ非サルモノ、書写誤字多シ、紙亦損○間有リ、文義通ぜザサレバ、今節略シ以テ之ヲ挙グ」として、文意を損じない程度に大要を引用している。従って薄衣状は、転写本として伝わっていたことが、葛西領内において大崎探題派と、非探題派の合戦は事実であろう。

 事件の発端は、三の迫の地頭相互の私闘に起きたものと知られる。富沢河内守(葛西氏の重臣岩ヶ崎城主)と上杉氏は共謀し、二迫彦次郎を切腹させた。このことは忌諱に触れたが、古川氏(大崎一族)の扱いによって富沢氏は赦免された。

 これを不満とした柏山伊豫守重朝・(胆沢大林城主)・黒沢氏(磐井の葛西一族に黒沢氏あり)金成氏(三迫の金成郷主か)等は、富沢河内守入道は上意に背いて兵乱を起し神社仏寺まで放火し東西濁乱となった。

 大崎探題よりこの動乱鎮定について、江刺三河守や薄衣美濃入道に対して、度々出兵の要請があり、再三辞退し難く、江刺弾正大弼と薄衣入道は明応七年(1498年)閏十月十五日出陣した。しかるに出陣留守中、十一月十三日に至って、弟が謀叛し登米の軍兵数百人と共に長谷城(門崎郷長谷の地か)に籠城し、親類の者も同調するのも生じ、元良信濃守清継も敵側に廻っている。殊に十二月八日には、惣梁軍(葛西太守か)数万騎が押寄せ来り、薄衣美濃入道の居城が包囲され、すでに切腹せんとしたが米谷左馬助の諫止によって籠城を続けるに至った。二月九日、下平形氏の勢が来り合して柏山伊勢守の勢と合戦、公方がたの勢も多数討死した。

 明応八年(1499年)の冬には、その攻防は一層激化し、十二月二日細川三河守・数流沢(摺沢)式部大輔、元良松崎城等のもの伯父石見守と共に味方として入城したところ、元良信濃守、小泉備前守・岩月式部少輔等の勢数千人が出動し、合戦は葛西領全円に及んだ模様である。一二月十日大原伯耆守(東山大原城主か)世田米伊豆守(気仙世田米城主か)鱒沢越前守(遠野鱒沢城主か)三氏の勢五百騎ばかりが敵側として出動、薄衣勢の後詰の百騎ばかりと交戦、味方は撤退した。

 年内は餘日が無いので、来二月にもならば、大崎探題自信出動し、佐沼辺に陣を張られたい。それに呼応して、糠部三千余騎(三戸南部氏か)その外、斯波、稗貫・遠野・和賀・須々孫の諸氏が南下して、胆沢郡の大林城に向って陣を張り、側面から仙北・由利・秋田の諸勢が共同攻撃するならば、たとえ柏山伊勢守は樊会の勇ありとも、これを打敗ることができるであろうと信ずる。よって伊達兵部少輔成宗においても、大崎探題を支援して出兵ありたい。詳しいこと蓮阿弥陀仏より申述べる(以上大意)。

 宛名の進上御奉行所は伊達成宗とされている。この書状から判断すると、大崎探題方として活躍しているのは、葛西領では、江刺三河守・摺沢摂津守・横沢式部大輔等の少数と、大崎方からの来援勢とであり、劣勢と知られる。敵側としては葛西太主の総領勢、柏山伊勢守重朝勢・大原肥前守勢、本吉信濃守勢、その他小泉備前守・岩月式部少輔・世田米伊豆守・鱒沢越前守等大勢と知られ、薄衣美濃入道の籠城する城郭は、風前の燈火、このままで経過すると陥落が迫ってくる情勢である。

 薄衣美濃入道経蓮については、諸系図にそのことを伝えるものを知らない。『薄衣系図』中、内匠頭清胤はこの時代の人該当するがどうであろう。この清胤は葛西家の一門である西館家の出身とある。本吉郡西館城に葛西家の支族が居り西館氏と称しているが、西館和泉守重信の次男清胤(初め清隆)が薄衣内匠頭清房の養子となった。この清胤(文亀二・1502年・卒六七)は明応八年(1499年)は六十四歳に当り葛西満信の外孫であるから「入道は苟くも葛西の門葉たり」と自署しても不自然でないが、法名は円心である。

 また清胤の長子上野介清貞(享禄二・1529年・卒七十一)も明応八年(1499年)には四十歳をすぎていたと知られるが、永正七年(1510年)に金沢と合戦を伝える外、事蹟不明であり、法名も覚心とある。この二人以外に該当者が見当たらないから、美濃入道経蓮の事蹟や、この家の系譜は湮滅したものであろう。

 文中の江刺三河守とその陣代をつとめた江刺弾正大弼についても同様であり、東山摺沢城主であったと推考される摺沢摂津守、横沢式部大輔についても同様であるから、この合戦に滅亡したものであろうか。

 明応八年(1499年)頃は、柏山伊豫守重朝が現存し、太守葛西家を支持し権勢があり、磐井の黒沢氏・栗原の金成氏と結んでいる。永正中にも柏山伊豫守が見える。『伊達正統世次考』巻八上・稙宗の永正十八年(1521年)五月朔日の条に、「五月朔日、賜二書於柏山伊豫守一、求二自所レ騎馬一且具告下前月攻二撃羽州処々一之事上因文書」とあり、伊達稙宗は羽州最上に出陣、天童城合戦の事情を柏山氏に報じ、乗馬を求めたことが知られ、伊達柏山両氏の接近と親交が知られる。この永正中の柏山伊豫守と明応年中の柏山伊豫守重朝は同一人かどうか判然いない。

 然るに、胆沢の「千田系譜」若柳千田家所蔵永正十一年挿入系図参照に見ると、永正十一年(1514年)に柏山刑部少輔因定をあげてあり、「小岩系譜」天文三年の条挿入系図参照に依ると、永正十五・六年頃、柏山兵部清原信綱の存在をあげている。

 さらに古いころでは、羽州稲庭城主小野寺通高応永二四(1417年)卒六十八の末女は奥州伊沢大林城主。柏山中務少輔重綱の室になったと伝えている。このように「柏山系図」もいろいろ不審な点がある。

以上、岩手県史(原文)は薄衣状の大意・背景を解説している。

※ ≪遠野陣の失敗≫   岩手県史 第二巻  1094頁  原文縦書

※ 金成彦次郎右近将監

 葛西氏は、閉伊郡遠野領主阿曽沼氏と衝突したこと、一再でなかったらしく、阿曽沼系譜中にも伝えられているが奥州葛西記(葛西実記・葛西盛衰記・異名同本)、葛西真記録等には、晴信の代に所謂遠野陣があり、敗退したと伝えている。奥州葛西記に左記の如くある。

 閉伊遠野十郷・釜石・大槌之領主、藤原藤太郎秀郷之末孫ニテ、遠野孫三郎三河守トテ横田之城ニ住ス。

 葛西左京太夫晴信是ヲ攻落サントシテ、三迫金成之城主金成彦次郎右近将監ヲ向ケラル。散々ニ打負ケ将監討死ス。是ヲ遠野陣ト云。

 葛西実記には、気仙郡から多田民部・及川土佐・新沼内膳清継、等が参陣討したとある。葛西氏が三迫金成城を収めたのは、天正元年(1573年)以降と知られるが、詳しいことは分からない。遠野孫三郎三河守とは、横田城最後の城主孫三郎広郷(慶長五年・1600年没落)のことであろう。

 註 葛西晴信  葛西家十七代 当主年代  
   永禄三年(1560年)~慶長二年(1597年)四月一九日没64歳

※ ≪ 宝 徳 合 戦 ≫  宝徳二年(1450年)   遠野市史 第一巻 189~191頁

※ 金成右近太夫政実

  遠野史、「宇夫方氏の盛衰」の項に、
 また、秀氏の子の光綱の代の宝徳二年(1450年)秋八月にも、隣国葛西領気仙郡東山の金成政実の侵攻があった。
『宇夫方家譜』「守儀」の項に、「守儀、孫三郎のち大学と称す。
 実は都下の領主阿曽沼参河守光綱の三男なり。安綱、嗣男無きをもって女妻をして家を継がしむ。宝徳二年秋八月葛西の領主、閉伊軍を掠めんと欲し気仙東山の軍兵を先立て遠野攻むるの時、葛西の家臣金成右京大夫政実、守儀在る所の谷地館を囲む。」とあるのは、それである。

 宇夫方守儀の居城の谷地館は、現在の綾織町二日町にあったが、早くから宇夫方氏の本拠地になっていた。語り伝えによると、この合戦は東山の金成政実が、附近の豪族を誘って一軍を編成し、秘かに気仙道から綾織に侵入し、不意に谷地館に襲いかかったもの、といわれている。

 宇夫方守儀は、当時遠野領第一の富強と称されていた。したがって一族郎党も多く、不意の敵の襲撃ながらよく戦った。それに急を聞いて鱒沢館の鱒沢守綱、宮森館の宮森主水らが、兵を率いて応援に駆け付けたので、

 さすがの気仙勢も攻めあぐんだ。それで窮余の末、山谷川を塞ぎ止め城を水攻めにするの奇策に出たので、城方が大いに困惑した。

 ところがこの時、大迫館の大迫掃部、達曽部館の達曽部民部が、大兵を率いて来り救ったので、城兵大に力を得、気仙勢に総反撃を加えた。この時、強弓をもって名のあった宇夫方郎党の大野十郎が、敵将金成政実を一矢のもとに射倒したので、敵方さんざんになって退散した。

 この戦いで、政実の子の千代松が十三歳の初陣と称して陣中にあったが、敗走の途中綾織軍に討たれて討ち死にした。

 時の人が、これを哀れんで墓をつくって弔った。後日、その母親なる人が墓参りにきたが、悲しみの余り付近の淵に身を投げて死んだ。
 それで、その淵を今でも金成淵とか、御前渕と呼んでいる。

 『宇夫方家譜』は、この合戦を次のように記述している。
「守儀防戦数十日、此の間に敵兵、人夫数百人をもって山谷川を塞止む。既にして一昼夜にして村中水に漂うて漂々として江の如し。

 館兵堪えるに難く、或は樹頭に昇り防箭(ぼうせん)を射る。時に大迫掃部、達曽部民部人数を率いて来、山谷川の抗柵を切払う。玆により堪水(たんすい)忽ち流落して敵兵数十人溺死す。館兵力を得て競い起ち、十死一生の強戦をなす。

 此の時、守儀の郎従大野十郎、強弓の手利なるが、敵将政実を射て殺す。ここに於いて、蓮沢辺の敵兵軍術を失って敗北す。館兵及び援兵等勝ち追うの所討取りの首七十余・・・。伝々」。

 さらに俗伝に曰くとして、
 「此の時政実の男児松千代十三歳、父を慕って陣中に在り。敗奔の時、雑兵のために追討さる。時人これを哀れみ、墳墓を立つ。其の阿母、哀痛の余り慕い来り遺跡を見、淵に身を抛ぐ。従婦十二皆身を抛ぐ。此れより以来此の所を金成淵或は御前渕と言う。」

 気仙から侵攻軍は、金成政実の討ち死によって敗退したが、この戦いは二カ月にもわたり、かつ一時綾織方が敗勢にあったので、戦場に近い民家は敵の略奪に会い大いに苦んだ、と伝えられている。

 この戦いで、谷地館を守りとおした宇夫方守儀の武勇が大いに賞掦された。
 その後、守儀は檜沢の北麓に西風館を築いて子の広豊に与え、新里の領主にした。と伝えられている。

 だが、この合戦に際して阿曽沼氏が、いかなる活動をなしたかについては、なんの伝説もない。
 また、西風館(ならいだて)築城についても『宇夫方家譜』は、「其の後守儀、西風館の水の難に逢うに懲り、後領地新里村に山城を築く。是を西風館と称す。嫡男広豊これに居る。又、二男源太広国に与えてより谷地に居る。」とある。

 したがって、阿曽沼氏と宇夫方氏との関係は、後世江戸時代において想像するような、緊密な主従関係があったものかどうかについては、なお研究を要するものと思う。(吉田)・・・・原文

≪ 石 越 村 史 ≫      669頁

石越村史関連項目←原文はこちら

 石越村史に
 『元和四年(1618年)八月金右京直安卒ス七十九子加賀嗣ク直安ハ近江重長ノ子ニシテ天文二十三年(1554年)九月故アリ郷里ヲ出テ伊達郡等を経歴シ後チ本村羽籠ニ来リ住ス弟助十郎信俊ハ葛西晴信ニ仕フ元亀二年(1571年)七月晴信大崎氏ト佐沼ニ戦フ信俊戦功アリ気仙郡四千刈ノ地ヲ賜ハルトイフ其先兵庫允金為雄貞観十三年(871年)奥羽県令ニ補シ気仙郡横田村ニ住ス世々気仙郡司タリ七代爲時ハ源頼義ニ仕ヘ安倍貞任ヲ討ツ戦功アリ采地七千餘町ヲ賜フ俊継ノ時葛西詮清ニ仕フ裔孫俊綱ニ至リ永和三年(1377年)葛西氏ヲ去り大崎左京太夫詮持ニ仕ヘ百餘町ヲ賜リ金成村ニ居ル』

 この石越村史が重要なことは、金氏十七代・俊継と金成氏祖の金俊網が親子であると云う記述である。

≪ 金 成 町 史 ≫      関連項目抜粋 

○ 金成町年表  701・702頁に
 1377年(永和三年)  金俊継葛西氏を去り大崎詮持に仕え百余町を賜り金成村にい
            る。 出典  石越村史
 1591年(天正18年)  八月十一日  高清水森原山にて討死する。
            金成館主金成内膳・畑館主畑對馬・藤渡戸館主有壁安芸。  
            出典 佐沼郷土史 

○ 金成町の人物  449頁
  金成内膳(金成)  武将
  大崎氏の家臣で金成館の館主である。主家没落とともに一時出羽最上領にのがれてい
 たが、大崎一揆ののち子孫は伊達藩に仕えている。
 註・上記・金成町史、文中「大崎氏の家臣」及び「大崎一揆」の記述は誤りで、
 『葛西氏の家臣』及び『最上家改易』とするのが正しい。

 金成大和(津久毛) 武将
  小迫西館の館主である。金成内膳の父とも伝えられている。

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○ 人物・名所・旧跡・伝説  482・492頁
 高見山の古塁(金成と津久毛の境)
  昔、大崎氏家臣の城址であったが、後金忠輔(又は金氏説あり)の居城になったこと
 もあると伝えられる。

 東 館(小迫)
  葛西の臣、金成内膳の父金成大和の居城と伝えられる。
 
 西 館(小迫)
  大崎の臣、飯倉日向の居城と伝えられる。

○ 金成町通史より 198頁
  延宝五年(1677年)に書き上げたといわれる「仙台領古城書立之覚」(宮城県史三十
 二巻)によると、金成町に次のような十三の館があった(但し築城年代は日本城郭全集
 第2―15巻による)・・原文抜粋

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○ ≪仙台人名大辞書≫
  カンナリ・ヤマト【金成大和】 武将。栗原郡小迫村西楯館主 年代不詳なら
                 ず。・・仙台人名大辞書

※ ≪栗原郡金成邑・金成姓の発祥は≫

 通説では、金成姓は天正七年(1579年)金(安倍)近江重直(号・大和)は葛西氏仕え金成城(金成南館)城主となる。 天正九年(1581年)重直・隠居し、子内膳に家督を譲る。内膳(初代・金成)後に金成姓を称する。
 と云われている。

 金成姓は永和三年(1377年)金俊継・俊網・親子が、葛西氏を離れ、大崎左京太夫詮持に仕え、百余町の禄で
 当時大崎領だった栗原郡金成邑に入り、荒崎柵(荒崎城)に居住した事により、金成邑と地縁を結んだ金氏は、俊継・俊網親子から荒崎城・小迫城を拠点に代を重ね重直の時、金成南館(金成城)に入ったと理解するのが順当と思う。当地は葛西氏・大崎氏が入り乱れた地域で、その時々によって大崎氏・葛西氏と替えたものと類推する。金成姓は天正九年内膳が家督を継いだ時に金成姓を称したと云うが、金成姓はその以前から使われていたものと考えられる。

 例えば、
  天正八年 雲南天神社 ・・・・金成邑風土記(宮城県史 25 569頁)
「勧請 葛西家臣當村南館主金成内膳と申御方天正八年兩社共御勧請之由申傳候事」
 と伝えられる様に、天正九年以前に、南館主・金成内膳と称している。

 又、伊達成宗宛の薄衣状に現れる金成氏(三迫の金成郷主か)と有るように、氏名不詳であるが、少なくても明応七年(1498年)頃、迫と云う地域に金成氏と称す人物がいた。
  註 伊達成宗年代  永享七年(1435年)から長享元年(1487年

 更に、遠野史、「宇夫方氏の盛衰」の項、宝徳二年(1450年)、宝徳合戦に現れる、葛西の家臣・金成右京太夫政実は気仙東山の軍兵を先立て遠野攻むるの時、と有るように、金成政実を東山の人ように思われているが、    
 これは、金成彦次郎右近将監の遠野陣・気仙郡から多田民部・及川土佐・新沼内膳清継、等が参陣討したとあるように、主力は葛西配下の気仙の軍兵である。同じく金成政実の場合も主力軍兵は、気仙東山の兵で金成氏も気仙東山の人とされるが、文中の見えない部分を読むと、『葛西の家臣、三迫の金成右京太夫政実、主君の命により、気仙郡東山の兵を纏め、遠野・谷地館を攻める』と

 だが、これらの事を否定するの為に良く使われるのは、葛西氏が三迫金成城を収めたのは、天正元年(1573年)以降。金重直が金成城(南館)に入ったのは、正七年(1579年)で金成城(南館)に入り、内膳天正九年に家督を継いで金成姓を称したものであると・・・・・

 そうすると、ここで生じる疑問は、金重直は金成城に入る前は、何処にいたか?
 重直、隠居して荒崎城に入り、後、小迫城にと伝えられるが、隠居城として居住する土地は、重直にとって安心、安定な土地と考えれば、それは住みなれた土地と云い変える事が出来るだろう。
 よって、重直は荒崎城・小迫城に居住していたと考えるのが順当である。

 以上の事から、前述したように、金氏は、俊継・俊網親子の代に金成邑と地縁を結んだが、それは三迫の金成邑の一部を構成する津久毛・小迫地区の荒崎館(城)・小迫館(城)である。 

 金成右京大夫政実・薄衣状の金成と断片的に記録が有るのみで詳細は不詳であるが、約二百年後の金重直の代にも、荒崎城・小迫城を隠居城と使用していた事実。

 薄衣状に現れる金成氏、三迫地域の争いに係わる人物である事実。

 宝徳二年(1450年)の宝徳合戦に現れる金成右京大夫政実は?

 金成姓を称したのは金爲時の流れを汲む金氏一族の中で、金俊継の子孫のみと云う事実。
 
 又、現在の旧金成町を見ても、金成姓を称する方はいない。この事実をどう考えるか?
 一つの仮説として、葛西歿落後・金成土佐は家族を伴なって落ち、平城主岩城常隆の家臣となった。一族の者は帰農し金野姓称した。これは推測であるが、現・長根屋敷西の金野氏は長根館の金成彦次郎を連想する家系ではと・・・・

 ここまで纏めると、金成姓の発祥は、金氏十七代・金俊継・子俊網が金成邑に居住し、金成邑と地縁を結んだのが始まりで、子孫が地名を姓として称したと同時に、他者から地名を姓とし称されていた。
 ''更に、一般的云われている金成氏の出自は、葛西の末葉と云われるが、系譜の流れなどから見ると、葛西氏と血縁関係は存在しないと云える。

伊達藩の金成諸氏

≪私本 仙台藩士事典   編者 坂田 啓≫  P282-283頁に金成項目あり 

金 成
        葛西家臣、内膳・土佐、岩城と続き天正中土佐の子隼人、最上氏家臣と
        なり、加成氏改め、後伊達氏に仕え旧姓に戻る。(子孫、金野氏、古川
        市在住よりの書状による。)
金 成
出   自  (葛西譜代) 最上浪人
禄・扶持高   三貫八〇九文
召抱 藩主   正 宗 
格   式   鷹匠組
延宝書状    本人祖隼人最上義光へ奉公、最上潰れた後元和九年、一〇貫文にて被召
        出、最上より妻子連れ当地迄きて目見後奉公せぬ内に病死、然処幼小の
        娘一人あり浪人者妻子飢餓になる事不憫に思われ、佐藤甚之丞継子甚
        蔵をその娘に取合三貫文にて隼人苗跡を立て、甚蔵は鷹匠組奉公を命ぜ
        られる。検地後二割出目加え三貫八〇九文となる。甚蔵寛文七年病死
        し実子の本人跡式継ぐ。
書上本人    彦兵衛
寛文侍帳    市之助  三貫八〇九文
宝永侍帳    記載無し
明和年中当主  吉兵衛
系  図    不 明
        彦兵衛元禄五年没  跡式 婿市十郎
諸士版籍    金 治  三貫八〇九文 (鷹匠組)

金 成 
出   自   分 立
禄・扶持高   五両八人
召抱藩主    正 宗
格   式   広 間
世臣家譜    下記金成氏の項より
        甚蔵長男市郎右衛門、正宗代若干の俸金給米にて別立家。
宝永侍帳    記載なし
明和年中当主  三郎兵衛  五両八人
系  図    不 明
        市郎右衛門、延宝八年加増、元禄十一年遺跡子三郎兵衛
諸士版籍    不 明
 
金 成
出   自   分 立
禄・扶持高   一貫九〇〇文判金一舞一〇人
召抱藩主    綱 村
格   式   中の間
世臣家譜    甚蔵二男六平、寛文七年二両四人にて小姓頭書記役に被召出別立家。延
        宝三、三両三人増加、同五年猪狩八兵衛よれり一貫九〇〇文受ける。貞
        享三年三両三人加増され、一〇貫八九〇文(判金一枚一貫九〇〇文)
        となる。
宝永侍帳    六 郎  一貫九〇〇文一枚一〇人
系  図    六平貫経―六平直諒―平四郎直株―兵六郎直明―七郎兵衛直信―順蔵直
        光―良右衛門
諸士版籍    一貫八〇〇?文判金一枚
 
金 成
出   自   最上浪人
禄・扶持高   三貫文三両四人召抱藩主    正 宗
格   式   鷹匠組
延宝書上    本人親善右衛門最上浪人、正宗代三両四人で鷹匠組に被召出、寛永一四
        隼鳥屋頭となり、万治元年江戸にて病死、同年跡式継ぎ親の役目を引続
        勤任、延宝五年寄親中島清十郎より加美郡之内新田起目三貫文を受く。
書状本人    善右衛門
宝永侍帳    記載なし
系  図    不 明
        善右衛門親子、年不明の(御献上の雉子について西大條右兵衛よりの書
        状)に名あり。石文P1066
        善右衛門、元禄三年病により番代子次郎助、元禄六年承家
諸士版籍    不 明

金成他氏の動向
寛文侍帳    五兵衛  二両四人
寛文八年在仙者 五郎作
宝永侍帳    記載なし
文化年中在仙者 考左衛門 丈右衛門 善 七
諸士版籍    隼 太  七両二歩十一人・徳雄・清斉と称す、学者として名あり
        (人辞)
        新右衛門 六両九人
        丈右衛門 四人
        善 七  五貫文三両四人(鷹匠組)
        恭 蔵  五貫文三両四人
        幸左衛門 三歩一二匁四人
その他     十四郎・六平直諒子無く、十四郎氏直次男を養い嗣子とする。
           ・享保一七年郡吟味役(市石坂村風)
           ・元文三年桃生郡代官?(福地村風)
           ・寛延三年十四郎の書状あり。(一迫町史P三二三)
                                 以上金成項原文

金成諸氏の家譜 資料

≪仙台藩に於ける屋敷と金成諸氏の関係図≫

伊達世臣家譜 第三巻 金成項≫ 原文へ

仙台叢書 第六巻 仙台府諸士版籍≫ 文化年間

伊達治家記録

金成十四郎氏直書状集

旧仙台藩士家禄問題之真相・抜粋

開拓使 官員全書・抜粋

甚蔵・善右衛門家の屋敷の変遷・・城下絵図より抜粋・・・

重直家の屋敷の変遷

金成諸氏の屋敷の変遷

金成諸氏の家譜

※ 金成甚蔵家 (鷹匠組)

隼 人           彦兵衛
 元和九年(1623年)    10貫文で仕え、正宗の命で金成姓に復姓。

元 直           甚 蔵
 元和九年(1623年)    斎藤甚之丞継子甚蔵を娘婿にし、隼人苗跡たて甚蔵は鷹匠
              組奉公を命じられる。
 召抱藩主         正 宗
 扶持高          三貫三〇九文
 万治二年(1659年)    九月二八日江戸に於いて、朽木民部少輔殿鷹献上
              使者蜂屋六左衛門鷹師金成甚蔵なりと記載あり。
              (雄山公治家記録中第五巻)
 寛文四年(1644年)    仙台城下絵図・所載人名録に金成甚蔵(土樋)と記載あ
              り。
 寛文七年(1667年)    甚蔵病死

彦兵衛
 寛文七年(1667年)    実子彦兵衛跡目を継ぐ(家臣録)
 寛文侍帳          市之助
 寛文八・九年(1668-69年) 仙台城下絵図・所載人名録に金成甚蔵(土樋)と記載
               あり。
 寛文九年(1669年)    仙台城下絵図に金成彦兵衛(土樋)と記載あり。
              (宮城県立図書館・叡智の杜・デジタル映像より)
 延宝・天和年間(1673-73年)仙台城下絵図・所載人名録に金成彦兵衛(土樋)と記載
               あり。
 延宝年間(1673-80年)   仙台城下絵図に金成彦兵衛(土樋)と記載あり。 
              (宮城県立図書館・叡智の・杜デジタル映像より)
 延宝六・八年(1678-80年)仙台城下絵図に金成彦兵衛し記載あり。
 天和二年(1682年)    四月四日○父君へ望月縫殿手前者書金成彦兵衛ヲ以テ道
               中・・・・・・
               伊達治家記録 九 背山公治家記録後編巻之二十 374頁」
 元禄五年(1692年)    元直没
   
吉兵衛             跡式 婿市十郎

吉兵衛
 宝暦・明和年間(1751-69年)仙台城下絵図・所載治名録に金成甚蔵(土樋)に記載あ
               り。
 明和年(1764-69年)    当 主
彦兵衛
甚 蔵
八十八
長之助

金 治 
 文化九・一四年(1812-17年)仙台府諸士版籍 上 御鷹組 三貫八百九文
               金治代に古川市から桃生郡赤井村(矢本町)に移った。

長之助
 安政三・六年(1856-59年) 仙台城下絵図・所載人名録補正に金成長之助(下土樋)
               に記載あり。
 慶応四年(1868年)     六月二十四日 棚倉落城・金山戦争・金成長之助・溺死
                 「仙台叢書十二・戊辰始末巻之十・305頁」

※ 金成善右衛門家 (鷹匠組)  

善右衛門
 元和九年(1623年)     土佐の次男・隼人の弟。正宗に召出される。
 召抱藩主           正宗
 扶持高            三両四人
 寛永一四年(1637年)    隼鳥屋頭となる。
 万治元年(1658年)     江戸にて病死。 
  
善右衛門           五郎作
 万治元年(1658年)     跡式継ぎ親の役目引継勤任
 寛文四年(1664年)     仙台城下絵図・所載人名録に金成五郎作(土樋)と記載
                あり。
 寛文八・九年(1668-69年)  仙台城下絵図・所載人名録に金成五郎作(土樋)記
                載あり。
 寛文九年(1669年)     仙台城下絵図に金成五郎作(土樋)と記載あり。
               (宮城県立図書館・叡智の杜・デジタル映像より)
 延宝五年(1677年)     二月二十七日中島清十郎宣成先年拝領の野谷地目代高
                左衛門三貫文
                金成善右衛門に領賜り残地知行高に成賜る。
               伊達治家記録第七巻 背山公後篇巻之四」
 延宝・天和年(1673-83年)  仙台城下絵図・所載人名録に金成善左衛門(土樋)と
                記載あり。
 延宝年間(1673-80年)    仙台城下絵図に金成善右衛門(土樋)と記載あり。
                (宮城県立図書館・叡智の杜・デジタル映像より)
 延宝六・八年(1678-80年)  仙台城下絵図所載人名録に金成善右衛門(土樋)と
                記載あり。(絵図無し)
 元禄三年(1690年)     病により番代子次郎助
 元禄四・五年(1691-92年)  仙台城下絵図・所載人名録に金成善右衛門(土樋)と
                記載あり。

成 時              次郎助
 元禄六年(1693年)       承 家

利 成

善右衛門
 宝暦・明和年(1751-69年)  仙台城下絵図・所載人名録に金成善右衛門(土樋)と
                記載あり。
 安永元・七年(1772-78年)  仙台城下絵図所載人名録に金成善右衛門(土樋)と記
                載あり。(絵図なし)

善太夫
善右衛門

善十郎             長十郎
 天明六・寛政元(1786-89年) 仙台城下絵図・所載人名録に金成長十郎(土樋)と記
                載あり。

善 七
 文化九・十四(1812-17年)  仙台府諸士版籍 中 御鷹匠組
 扶 持            五貫文三両四人分

恭 蔵
 文化九・十四(1812-17年)  仙台府諸士版籍 上 鷹匠組
 扶 持            五貫文外四人分
 安政三・六(1856-59年)   安政補正改革仙台府図・所載人名録に金成恭蔵(良善
                院・姉歯横丁)と記載あり。

善左衛門成次          額兵隊・函館戦争参加
 明治二年(1869年)      六月十八日 脱藩に付き家跡○取(没収)
                「仙台叢書第十二巻・戊辰始末 293頁」
 出奔候ニ付家跡没収      奮禄八拾五石壹斗六升  金成善左衛門
                (旧仙台藩士家禄問題之真相)
 明治五年(1872年)      壬申二月二日・開拓使・三等出仕拝命
                (北海道開拓使文書・官員全書)
 明治十年(1877年)      西南の役に警視庁抜刀隊に少警部として参加。
 明治十一年(1878年)     志田郡長となる。
 明治二十二年(1889年)    四月内務大臣より家名再興差許(仙台戊辰史)
 大正四年(1915年)      卒七十七歳  

※ 金成重直家 (組士格)

重 直         
 元和九年(1623年)      隼人の長男・別家を立てる。
 召抱藩主           正 宗
 扶持高            五両八人
 格 式            広 間
               (宮城県姓氏家系大辞典第二部・金成項・594頁)
市郎右衛門
 寛文九年(1669年)     仙台城下絵図に金成市郎右衛門(東七番丁)と記載あ
                り。
               「宮城県立図書館・叡智の杜・デジタル映像より」
             註 仙台城下絵図の研究附圖 15 第二高等学校所蔵の寛
               文八・九年仙台城下絵図には、東七番丁に金成市郎右
               衛門の記載がない。

 延宝年間(1673-80年)   仙台城下絵図に金成一郎右衛門(東七番丁)と記載あ
               り。
               「宮城県立図書館・叡智の杜・デジタル映像より」
 延宝六・八(1678-1680年) 仙台城下絵図に金成市郎右衛門(東六番丁)と記載
               あり。(絵図のみ)
 延宝八年(1680年)     十二月十一日・金成市郎右衛門斎藤小名衛門各武田伊
               右衛門手前物書役就て俸金給米加増を賜ふ。
               伊達治家記録第八巻背山公治家記録全書後篇巻之十六)
 天和三年(1683年)     五月二十三日・広間始テ御礼金成市郎右衛門子勘太
               郎・・・・・各太刀目録献上拝謁
               伊達治家記録第九巻 背山公治家全書後篇巻之二十二 492頁)
 元禄四・五(1691-92年)  仙台城下絵図・所載人名録に金成市郎右衛門(東六
               番丁)と記載あり。

三郎兵衛           勘太郎
 元禄十一(1698年)     一月十三日遺跡子三郎兵衛
               伊達治家記録第二十巻・背山公治家記録全書後篇巻之八十七 151頁)
  
三郎兵衛
 明和年(1764-69年)    当 主
 宝暦・明和年(1751-69年) 仙台城下絵図・所載人名録に金成三郎兵衛(東七番丁)
               と記載あり。
 天明六寛政元(1786-89年) 仙台城下絵図・所載人名録に金成三郎兵衛(東六番丁)
               と記載あり。

市良右衛門
 文化九・十四(1812-17年) 仙台城下絵図・所載人名録に金成市良右衛門(東七番
               丁)と記載あり。
             註 屋敷の所在地から重直家の流れと類推した。市郎右衛門の誤りか?

三 郎             維新後・赤井村長を務めた。

※ 金成貫経家 (組士格)

伊達世臣家譜続編原文へ
・・第二・四巻 平士の部・・

六平貫経
 寛文七年(1667年)    甚蔵二男六平(七平)二両四口で小姓頭書記役被召出別
               立家。後祐筆。
 自 出           分 立
 召抱藩主          綱 村
 扶持高           一貫九〇〇文判金一枚
 格 式           中の間
 延宝三年(1675年)     三両三人加増 (仙台世臣家譜)
 延宝五年(1677年)     猪狩八兵衛より一貫九〇〇文受ける(伊達世臣家譜)
 延宝六年(1678年)     猪狩清之丞兼行より五両五口受ける(伊達世臣家譜)
 延宝・天和年(1673-83年) 仙台城下絵図に○○七平衛(北二番丁)と記載あり。
              (絵図のみ)
 延宝年(1673-80年)    仙台城下絵図に金成七平(北二番丁)と記載あり。
               「宮城県立図書館・叡智の杜・デジタル映像より」
 延宝六・八(1678-80年)  仙台城下絵図に金成七平太(北二番丁)と記載あり。
               同上所載人名録に金成七兵衛と記載あり。
 貞享元年(1684年)    天和元年1681年?)三月七日(事件)
               宇角喜右衛門、金成七平、宇角勘三郎、金野瀬兵衛各親
               戚に預けられる。
               同年同月八日
               宇角喜右衛門 斬罪、金成七平 助命前の如く奉公、宇
               角勘三郎 進退没収、金野瀬兵衛 閉門
              伊達治家記録第十巻 背山公後篇巻之二十四 261頁) 
 貞享三年(1686年)     三両三ひと加増され、一〇貫六九〇文判金一枚一貫九〇
               〇文となる。
               一〇六石の禄(伊達世臣家譜)
 元禄元年(1688年)     七月二十四日・二十七日連歌有り。執筆 金成七平ナリ
               と記載あり。
              伊達治家記録第十一巻 背山公後篇巻之三十七 483・484頁)
               同年九月二十四被 連歌アリ。執筆 金成七平と記載あ
               り。
              伊達治家記録第十二巻 背山公後篇巻之三十八 107頁)
 元禄四・五(1691-92年)  仙台城下絵図・所載人名録に金成七平(北二番丁)と記
               載あり。
  
六平直諒
 宝永七年頃(1710年)    江志彦惣の教えを受ける。
 格 式           大番組  学者
 元和元年(1736年)     仙台学問所(養賢堂前身)創立の時、同所目付、監察を
                命ぜられる。

平四郎直株           六平直諒子無く、金成十四郎氏直次男を養い嗣子。
                (伊達世臣家譜 第三巻 巻之十五 平士之部)
 宝暦・明和年(1751-69年)  仙台城下絵図・所載人名録に金成平四郎(花壇)と記
                載あり。
 安永元・七(1772-78年)   仙台城下絵図所載人名録に金成平四郎(姉歯横丁)と
                記載あり。(絵図なし)
 天明六・寛政元(1786-89年) 仙台城下絵図・所載人名録に金成平四郎(花壇)、金
                成兵六郎(北二番丁)と記載あり、兵四郎屋敷は空き
                家。

兵六郎直明           伊達世臣家譜 続編 第二巻甲集(平士二十七)二
                -303に記載あり。

七郎兵衛直信
 寛政九年(1797年)      八月、氏家玄格直一二男七郎兵衛直信家督継ぐ
                伊達世臣家譜続編乙)

順蔵直光
 文化四年(1807年)      正月家督を継ぐ
                伊達世臣家譜続編 第四巻 乙集(十五之十一)四―356)
 文化四・十四(1812-17年)  仙台府諸士版籍 中 一貫四十五文判金一枚十人分

良右衛門直邦
 文化十三年(1816年)     十月、岩崎勝蔵親茂次男が家督を継
                伊達世臣家譜続編 第四巻 乙集(十五之十一)四―356)
 文化九・十四(1812-17年)  仙台府諸士版籍 上 一貫八百文外一枚十人分

大之助             直邦の子、大之助は遠田南方大肝入役を務め、戊辰戦
                争・奥羽戦争に
 慶応四年(1868年)      7月十一日羽州新庄領金山戦争・討死
                (仙台叢書第十二巻 戊辰始末 314頁)

※ 金成家諸氏

五兵衛
 寛文侍帳(1661-72年)    扶持高・二両四人
              註 六平貫経の別名か? 根拠は同時代扶持高同じ

十四郎氏直           享保・宝暦年間の人
 享保・宝暦年(1732-55年)  享保十七年・宝暦六年の二十三年間に金成十四氏直の
                署名入り書状が十六通存在する。
 伊達世臣家譜          六平直諒子無く、金成十四郎氏直次男を養い嗣子。
              註 宝暦・明和年間の仙台城下絵図・所載人名録に記載無
                し。地方在住か?
 扶持高            不 明
                六平直諒と同時代の人、平四郎直株、養い嗣子と云う
                事は、幼小の時養子出した経緯から類推すると、直諒
                と兄弟の可能性が高い。
                跡式は兵四郎か?

兵四郎             十四郎氏直の長男か?
 安永元・七年(1772-78年)  仙台城下絵図・所載人名録に金成兵四郎(勾富台通)
                と記載あり。
              註 平四郎直株と同時代の人。

幸 内
 宝暦・明和年(1751-69年)  仙台城下絵図・所載人名録に金成幸内(米ヶ袋)と記
                載あり。
 安永・明和年(1772-78年)  仙台城下絵図・所載人名録に金成幸内(米ヶ袋)と記
                載あり。
 天明六・寛政元(1786-89年) 仙台城下絵図・所載人名録に金成幸内(米ヶ袋)に記
                載あり。
              註 米ヶ袋在住は、格式・御鷹匠組

幸左衛門            文化年在仙台者として金成考左衛門とあるが、幸左衛
                門と同一人物。
 文化九・十四(1812-17年)  仙台城下絵図所載人名録に金成幸右衛門(米ヶ袋)と
                記載あり(絵図なし)
 文化九・十四(1812-17年)  仙台府諸士版籍 中 月俸給廩之部
 格 式            御鷹匠組  知行 五貫文 
                小判三歩十二匁八分三人分
              註 幸内と同一屋敷と類推でき、幸内の跡式と考えられ
                る。
 天保六調べ(1835年)     以呂波分 仙台藩士人名辞典
                御鷹匠組 五両五人分

隼 太(徳雄)         学者・字は子潤、通稱隼太、清斉と号す。皇漢の学
                に精す。
天明六・嘉永三(1786-1850年)嘉永三年八月十八日卒六四歳 石名坂、円福寺に葬る。
               (出典・仙台人名大辞典)
 文化九・十四(1812-17年)  仙台府諸士版籍 中 月俸給廩之部
 格 式            組士格  知行 壹貫九百文
                小判七両貳歩壱拾壱人分
 天保六調べ(1835年)     以呂波分 仙台藩士人名辞典
                組士格  一枚十人分一貫九〇〇文
  
丈右衛門
 文化年(1804-16年)      在仙者
 文化九・十四((1812-17年)  仙台城下絵図所載人名録に金成丈右衛門(下土樋)
                 と記載あり。(絵図なし) 
 文化九・十四(1812-17年)   仙台府諸士版籍 中 月俸給廩之部
  格 式            組士格 
                 知行 五百弐拾六文外拾八人分 外五百弐拾五文
                 永御貸上
                 四人分
 天保六調べ(1835年)     以呂波分 仙台藩士人名辞典
                 三歩一二匁八分四人分

新右衛門
 文化九・十四(1812-17年)   仙台府諸士版籍 中 月俸給廩之部格式 組士格
                 知行 四百五拾参文
                 六両九人分
 天保六調べ(1835年)     以呂波分 仙台藩士人名辞典
                組士格 六両九人分

寛三郎
 安政年(1856-89年)     安政補正改革仙台府図・所載人名録に金成寛三郎(姉                
                歯横丁)と記載あり。

勇三郎
 安政年(1856-89年)     安政補正改革仙台府図・所載人名録に金成勇三郎(長
                丁)と記載あり。

十四郎
 慶応四(1868年)       五月二十九日、岩城小名浜戦争
                金成十四郎・討死

金成宗利            幕末の人・詳細不明
 天保十年(1839年)      二月八日、妻・わくり、斎藤佐内の二女として生まれ
                る。
 安政年(1856-89年)      安政補正改革仙台府図・所載人名録に斎藤佐内(米
                ヶ袋横丁)と記載あり。
 明治二十一年(1888年)    三月二十一日子・直利家督を継ぐ

 明治二十六年(1893年)    五十九日「願済宮城県仙台市土樋 金成家名ヲ廃シ入
                籍」と娘、ちかの項に記載あり。土樋の金成家と
                はどこの家を指すのか。その関係は?
                更に調査が必要。

 大正八年(1921年)      三月七日わくり卒・八〇歳。札幌で死亡。
               
                  

  
金成成雄            藩士。晴霞と号す。
 文政年(1818-29年)      其詩春雨樓詩契に出づ、又俳句を善くす。文政年中
               (1818-29年)の人、其の句に云く、
               「花に来て我も見らるる人の数」
              註 徳雄(隼太)と同時代で、同一人物か?
                (出典・仙台人名大辞典)

金成徳直(のりなお)      国学者・通稱隼太
 元和寛永年(1615-42年)   仙台の国学者にて元和寛永年間の人なり。(国学人物
                誌)傳記詳ならず。
                (出典・仙台人名大辞典)

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