ようこそ、ザ・蝦夷ごちゃごちゃ趣味の杜へ・蝦夷地へ・札幌観光写真集へ・

金氏の系譜

・・・・・初心者でも簡単・QHMソフトで作成・・・・・
https://www.1st-easy-hp.com/club/products/affcode/10/40984/

a:20690 t:3 y:13 1905・2495・2810・2250・2542
2010・8・23
最新更新2015-08-27 (木) 13:10:31

    気仙・金氏の系譜

各種系図、クリックしますとご覧になれます。参考にどうぞ・・・
※ 気仙 金氏・仙台 金成氏の複合系譜

※ 朝鮮系渡来氏族・金氏【参考系図】
※ 新羅王家 金氏系図
※ 金徳師 金氏系図
出 典 古代氏族系譜集成 下巻 宝賀寿男 編著
※ 続日本記・天平5年4-7月記【参考文献】
出 典 続日本記 二 271頁 抜粋 金徳師 項

※ 気仙郡(安倍姓)金氏系図
出 典 安倍姓金家氏系譜 奥玉村・金野為雄所蔵
出 典 安倍姓金家系譜  天狗田・金 一弥所蔵
出 典 岩手県史 第二巻 69頁
※ 金野氏系図
出 典 東磐井郡邑久玉村 金野為雄所蔵(明和四年撰・1767年)
出 典 岩手県史 第二巻 897・898頁
※ 千厩金沢 金氏系図
出 典 岩手県史 第二巻 895・896頁
出 典 奥玉村 金 一弥所蔵系図(奥玉村金野為雄所蔵系図参酌)
※ 登米郡狼河原 金野氏系図
出 典 岩手県史 第二巻 1095・1096頁
出 典 奥玉村 金野為雄所蔵(安倍姓金野氏系譜)
※ 浜田金氏系図
出 典 岩手県史 第二巻 965頁
出 典 原文は立根掘之金野仁衛所蔵
※ 金氏略系図
出 典 岩手県姓氏歴史人物大辞典・659頁
※ 中山・米崎館下 金氏系図
出 典 岩手県史 第二巻 601・1069頁
出 典 米崎浜田館下金藤五郎所蔵系図
※ 金成氏系図
出 典 戦国大名 葛西氏家臣団事典 柴桃正隆著 197頁
出 典 文献 「金成氏の系図」仙台中田 金成逸郎家所蔵
「二階堂氏系図」金成畑宝領屋敷所蔵
※ 千厩 金野家系図(異姓)・『参考系図』
出 典 岩手県史 第二巻 900・901頁
※ 米倉系図・『参考系図』
出 典 岩手県史 第二巻 963頁
出 典 伊達世臣家譜巻之十一

※ 気仙・金氏の始祖・兵庫允安倍為雄

※ 岩手県姓氏歴史人物大辞典(660頁)より作図

クリック・拡大

※ 安倍為雄・金為雄(為勝とも云う)

初代 気仙郡司 兵庫允 (859年)
年 代 貞観年代(815~888年)
住   横田又は米崎と伝えられる。

 左大臣正二位倉梯麻呂を遠祖とし、安倍兵庫允爲勝と称した。貞観元年(859年)3月に初代気仙郡司として下向し、貞観13年(871年)郡内産出の金を朝廷に献上したことにより金姓を賜る。・・・・通説「安倍正統氏族系譜」内閣文庫・水戸彰考館蔵

 貞観13年(871年)3月初代気仙郡司として下向し、気仙郡横田村(陸前高田市)に住し砂金採集を興し、しばしば朝廷に金を献上したことによって金姓を賜る。以後、子孫は代々気仙郡司に任じられ永久5年(1117年)まで横田村に居住した。為雄の跡は爲秀、秀長、吉連、爲定、爲時と続く・・岩手県姓氏歴史人物大辞典より151・660頁

 又、金家系譜・金文書では「安倍兵庫丞為雄」と、居館は横田又は米崎と伝えられる。

異説1:大同3年(808年)撰の「大同類聚方」に衣太手神社所伝の介前薬を奉納した「気仙郡気瀬直麻呂」がみえる。この気瀬氏をのちの気仙金氏の遠祖にあたるとする説もあるが、推量の域をでない。・・岩手県の地名・日本歴史地名大系

異説2:新羅王族の金姓で、武蔵国埼玉郡の新羅人で天平5年(733年)に金姓の賜姓を受けた金徳師の子孫とされる。昆・紺・今・近・金野・昆野・紺野・今野・近野などの苗字は支流もしくは亜流とされる。子孫に大河兼任の乱時の金爲俊がいる。と云う説あり。・・・・・・・・・・・・
・・「安倍正統氏族系譜」内閣文庫・水戸彰考館蔵『百家系図稿』巻3・岩井(参照)

異説3:古代から中世にかけて気仙・磐井郡に勢力をふるった豪族に、金氏がある。
『類聚国史』天長元年(824年)の記事に「新羅人辛良・金貴賀・良水白等五十四人、安置陸奥国」とあって、この金貴賀が奥州金氏の祖とも想定できるが、未詳。・・・(岩手県の地名日本歴史地名大系より

※ 金 爲尚(爲直)爲時の親       気仙郡司

年 代 年代不詳

※ 金 爲時  為雄六代   外従五位下 気仙郡司

年 代 寛仁元年(1017年)~寛治二年(1088年?)

 平安時代後期奥羽の豪族、前九年の役、源頼義軍(官軍)について戦った。
 前九年の役(永承5年・1050年~康平5年・1062年)

『陸奥話記・前九年の役・読み下し佐藤弘弥氏・・・奥州デジタル文庫 
【7・頼義の陸奥守重任】の項 天喜5年(1057年)九月
「・・・臣、金爲時、下毛野興重等、奥地の俘因に甘きを説きて、官軍を興さしむ。これに於いて、鉋屋、仁土呂志、宇曾利、合わせ三都の夷人安倍富忠を首となして、兵を発し、爲時に従う。・・・・」

【日頃市町長安寺系譜・金文書】
 金爲時は立根町(たっこん)大久保山で安倍氏の兵を敗させたのち当地に土着、周辺の金山の開発に努めたと伝えられる。・・・・岩手県の地名・日本歴史地名大系
         

※ 金 爲行             気仙郡司

年 代 爲時と同年代と類推

 前九年の役(永承5年・1050年~康平5年・1062年)安倍貞任軍に付く。

【十訓抄】:安倍貞任の舅・爲時の兄弟とする系図が存在する。

『陸奥話記・前九年の役・読み下し佐藤弘弥氏』・・・奥州デジタル文庫 
【20・義家の武勇】の項 天喜5年(1057年)
 『同十二月十七日國解に曰く、「斬り獲たる賊の徒、安倍貞任、同重任、藤原経清、散
 位平孝忠、藤原重久、散位物部維正、藤原経光、同正綱、同正元、帰降客安倍宗任、
 弟家任、則任(出家して帰降)散位爲元、金爲行、同則行、同経永、藤原業近、同頼
 久同遠久等なり。・・・・』と、安倍貞任、同 重任等らは討ち死に、金爲行、同則
 行、同経永等らは投降と伝えている。

【河崎の柵】
  前九年の役で金爲行が守備したとされる河崎の柵疑定地は一関市川崎町で見つかった
 大溝跡。・・・・2003年8月・・・・岩手日報

【前九年の役に参軍した金諸氏】
『陸奥話記・前九年の役・読み下し佐藤弘弥氏』・・・奥州デジタル文庫 

【15・衣川関の攻防戦】の項 天喜5年(1057年)
「・・・・・同七日、關(せき)を破り膽澤(たんざわ)郡白鳥村に至る。大麻生野及び瀬原
 の二柵を攻めて、これを抜き、生虜(いけとり)の一人を得て、申して云(いわ)く、度々
 の合戦の場に、賊師の死者は敷十人なり。所謂(いわゆる)散位平孝忠、金師道、安倍時
 任、同貞行、金依方等なり。皆これ貞任、宗任の一族なり。驍勇驃駻(げいゆうへいか
 ん)の精兵(せいびょう)なり」伝々と。

≪ 考 察 1 ≫

  金爲時の祖を新羅王族の金姓で、武蔵国埼玉郡の新羅人金徳師の子孫とする説がある
 が、それは、「陸奥話記・15・衣川関の攻防戦」の項に由来する と思われる。
 この条文を見ると「・・・金師道・・金依方・・貞任、宗任の一族・・」とある。
 「金師道」の名を見ると、此の氏名は、新羅人、「金徳師」の流れを組むのがわかる。
 「金徳師」⇒「金師道」と先祖の名前の一字を用いている。

  次に、「陸奥話記・7・頼義の陸奥守重任」の項には「金爲時」、「陸奥話記・20・
 義家の武勇」の項には「金爲行、同則行、同経永」とあり、この氏名は気仙金氏の祖、
 安倍為雄(爲勝)の流れを組むことが文字から見てわかる。「爲時」・「爲行」共に、
 「爲雄」の一字を継承し、更に、「則行」は「爲行」の一字を用い、「爲行」の係累
 であるのが類推できる。

  これらのことか、この時代、この地域に新羅系金氏と気仙(安倍)系金氏が混在してい
 たことが、使用されている文字によって類推できる。 

[[クリック拡大]]

※ 金 時成(太郎時成)  爲時の曾孫

年 代 年代不詳
 各、金氏系図に記載なし。
 保延年間(1136~1140年)当館(本宿館・横田城)を築いたと云う。・・熊野神社の社伝 (岩手県の地名 日本歴史地名大系より)

※ 金 秀時(太郎秀盛)  爲俊の親  為雄十二代   気仙郡司

金 十郎秀時
年 代 年代不詳
居 住   本宿館、横田城とも云われる。

 保延年間(1136~1140年)に館を築いたと云う説あり。・・・横田村誌(岩手県の地名 日本歴史地名大系より)

 奥州合戦期に「秦衡郎従」の大将軍として金十郎がみえる。 ・・吾妻鏡文治五年八月一〇日・岩手県姓氏歴史人物大辞典

 奥州合戦・文治五年(1189年)九月一三日・捕えられていた、 樋爪俊衡と共に釈放された藤原秀衡の家臣は、
金剛別当秀綱、田 河太郎行文、秋田三 郎致文、下須房太郎秀方、金 平六、若九 郎太夫、伊賀良日七郎高重、伴 藤八、熊 野別当、佐藤三郎秀 員、河辺太郎高経、金 十郎、勾 当八、赤田次 郎、河田次郎、若次郎、長崎四郎隆実、豊前介清原実俊、橘藤五 実昌、由利八郎維平、大河次郎兼任、同鶴太郎(兼任嫡子)、同畿内次郎(兼任次男)、新田三郎入道(兼任の兄)、二藤次忠季(兼任の弟)、信夫司家信(始云基治)、佐藤三郎継信(庄司長男)、佐藤四郎忠信(庄司次男)等である。・岩手県史 第一巻 841頁

 「金野氏系譜」気仙立根舞良金野家蔵(寛保二年・1742年)の系図に、気仙郡司金野爲雄(金 爲雄)十二代目を金野十郎秀時とし、その長男金野四郎右馬之介爲俊が建久元年(1190年)源頼朝の 幕下に属して気仙郡司に補任され三千余町を賜った。と・・・・岩手県姓氏歴史人物大辞典 600頁

※ 金 爲俊(十郎四郎)  秀時の長男 為雄十三代   従六位下右馬助  気仙郡司

年 代 嘉禄元年卒61歳(1226年)   出生  永万元年(1165年)
住   横田村
室   安倍家村の女(子)

[[クリック・拡大]]

 気仙郡の旧豪族、金十郎四郎爲俊は、平泉藤原氏滅亡後、山
中に蟄居していたが、大河兼任謀叛のとき、出でて追討軍に参加し、功なよって、建久三年(1192年)祖業の気仙郡司に補任せられ、系邑三千余町を給せられたという。三千余町は、耕地以外の山川を含むものであろう。爲俊は、従六位下右馬助に叙任、父祖以来の家職気仙郡司に補せられ、金氏中興の祖となった。居館は横田本宿館と伝えられる。爲俊の伝を「安倍姓金家氏系譜」奥玉村金野為雄所蔵によって示すと左のごとくある。

 平泉藤原氏防滅後、奥州の地は、秀衡時代の慣例を尊守する
例であった。従って気仙郡は国司所管の旧例により、奥州留守
所に属し、郡司を持って管理したものであろう。安倍姓金氏は
鎌倉期中、郡司を世襲し、それが北畠顕家の国府着任まで続い
ているのは注意され、この伝えでは、当初気仙郡は、葛西氏の
領地でなかったことになろう。・・・岩手県史 第2巻 68頁

     
 安倍姓金氏系譜(金野文書)では、大河兼任の乱で軍功を立てた気仙郡の金十郎四郎爲時は建久三年(1192年)采邑三千余町を与えられたといい、その居館を本宿館とする説がある。館は爲俊の父太郎時盛が保延年中(1135-41年)に築いたものと云う。
                      (横田村誌)

 館主は「仙台領古城書上」には日(昆か)野右馬允、「気仙郡記」には金野大学、「封内風土記」には葛西氏家臣紺野(昆野)右馬允とある。
 また熊野神社の社伝によれば、気仙郡司金爲時の曾孫太郎時成が保延年間に当館を築いたともいい、いずれにせよ金爲時の系譜を引く金野(紺野・昆野)氏の城と考えられる。天文年間(1531-55年)同氏は本城を北方三日市館に移したと伝える。・・・・・岩手県の地名 日本歴史地名大系 3 100頁
 
 尚、岩手県史第二巻26頁に「・・気仙郡の士、安倍四郎爲時は、兼仕追討使に従軍して軍功を立てて・・・・」とあるが、文中の爲時は「爲俊」の誤植と思う。

※ 金 定俊(太郎) 爲俊の長男 十四代   従六位下右馬助  気仙郡司 

年 代 文永三年卒71歳(1266年)     出生 建久六年(1195年)

※ 金 清俊(次郎) 爲俊の次男
年 代 健保二年卒19歳(1214年)     出生 建久六年(1195年)

≪ 考 察 ≫
 定俊、清俊の卒年齢から逆算して出生年代を割り出すと、建久六年と同じであることから、双子の兄弟と類推できる。

※ 金 定国(三郎) 定俊の子 十五代    従五位下丹波守  気仙郡司

年 代 正安三年卒72歳(1301年)     出生 寛喜元年(1229年)

※ 金 時俊(四郎) 定俊の子 十六代 右馬助  従六位上右近太夫 気仙郡司
年 代 永仁四年卒62歳(1296年)     出生 文暦元年(1234年)

※ 金 俊長(孫四郎) 時俊の子十七代    従六位上右近太夫 気仙郡司

年 代 元徳二年卒67歳(1330年)     出生 弘長三年(1263年)

≪ 考 察 ≫
 安倍為雄が貞観13年(871年)3月、初代気仙郡司として下向してから、北畠顕家の国府着任(1333年)頃迄の450余年、気仙郡司を世襲していたのが分かる。

 注 気仙郡安倍姓 金氏系図「安倍姓金家氏系譜」 奥玉村金野為雄所蔵
              「安倍姓金家系譜」  天狗田金一弥所蔵の系図等。

※ 金 俊清(弥四郎) 俊長の子十八代 兵庫助 従五位下周防守(以下金野姓)   

年 代 貞和六年卒73歳(1367年)   出生 永仁二年(1294年)
 建武二年(1335年)国司北畠顕家、第一次上洛に参軍した諸城主従郡軍者に、『金兵庫助俊清・・・・・・気仙郡住・仕建武中顕家・同四月八日葛西の麾下(きか)に属』と・・・岩手県史第二巻325頁 

※金 俊継''(孫太郎) 俊清の子 主馬兵庫 十九代

年 代 明徳三年卒69歳(1392年) 
出 生 元亨三年(1323年)
 
「気仙郡には、古来から安倍姓の金氏が居り、郡司を世襲していた。然るに金右近太夫俊長(元徳二年・1330年四月十日卒年67歳)を最後に郡司の名は系譜にも消えている。更に俊長から俊清・俊継と続き、その嫡系の家が不明となっている。
 

[[クリック・拡大]]

金兵庫助俊継の弟右馬允定俊は、文和元年(1352年)東山千厩に移住し、この方面金野氏の祖となった。かくて南北争乱の際気仙郡司金氏は、幾つかの家に分かれたらしい。」・・岩手県史第二巻600頁

[[クリック・拡大]]

 
「千厩・金沢・金氏系図」(金一弥所蔵)では俊継の跡が不明になっている。

《考 察2》 気仙郡司・金氏の嫡家は仙台・金成氏か?
 不明となっている金氏の嫡系を探索する。 
 金野系図」金野為雄所蔵(明和四年撰・1767年)では、俊継の子、持俊・俊安となっているが、持俊は千厩金野氏の祖で定俊の継承ではないのか?
 俊安は狼河原の祖であり、混乱が生じている。その原因は、明和四年撰と云う時代が下ったとこにあると考えるが、どちらにしても俊継以降は 不明と云うのが金氏・金野氏系図の伝承である。

 金氏・金野氏系図とは別に、金爲時を祖とする系図が存在する。   
 それは、栗原郡金成邑に住する、金成氏の系譜である。金爲時を祖とする、「金俊網・永和三年(1377年)大崎左京太夫詮持に仕へ金成邑、領・百余町、金成荒城館主」と金成氏系図に記載されている。又、金成町史には「金俊継・永和三年(1377年)大崎左京太夫詮持に仕へ金成邑、領・百余町、金成荒城館主」と二説ある。
「俊綱」・「俊継」と一字違う。金成氏系図は伝承されて来たものだろうが、金成町史の根拠は?石越村史と出典が記載されている。
 次に、金成氏系図・石越村史をみる。

[[クリック・拡大]]

石越村史・・・・668頁・抜粋
『・・・・・○四月八日金右京直安卒す年七十九子加賀嗣ク直安ハ近江重長ノ子ニシテ天文二十三年九月故アリ郷里ヲ出テ伊達郡等ヲ経歴シ後チ本村羽龍ニ来リ住ス弟助十郎信俊ハ葛西晴信ニ仕フ元亀二年七月晴信大崎氏ト佐沼ニ戦フ信俊戦功アリ気仙郡四千刈ノ地賜ハルトイウ其先兵庫允金為雄貞観十三年奥州県令ニ補シ気仙郡横田村ニ住ス世々気仙郡司タリ七代為時ハ源頼義ニ仕ヘ安倍貞任ヲ討ツ戦功アリ采地七千餘町ヲ賜フ俊継ノ時葛西詮清ニ仕フ裔孫俊綱ニ至リ永和三年葛
西氏ヲ去リ大崎左京太夫詮持ニ仕ヘ百餘町を賜リ金成村ニ
居ル・・・・・

注 葛西詮清年代 1365年~1388年
嘉慶2年6月10日没44歳(1388年)  出 生 康永3(1344年)

 金成町史によると、永和三年(1377年)金俊継、大崎詮持に仕え金成 荒城に居ると、この時俊継は、54歳、又金成氏系図では、俊網が永和三年(1377年)大崎詮持に仕え金成邑に居ると、それぞれ書かれている。これらを、合理的に説明するには、同時期に「俊継」・「俊網」と云う二人の人物がいたと云う前提に立つと、

 その二人の関係は、「裔孫」と云う文字から「俊継」の嫡子が「俊網」、親子である。
 又、俊網の伝えられる名に、「彦三郎」・「新左衛門」とある様に、俊継の三男が跡を継いだもの思う。詳細を伝える記録は残されていないが、僅かな記録の断片から類推する以外にない。
 金成氏系図は俊網から重直までの記録が欠落しているが金(安倍)姓を伝承していることから、又、俊継の居館が荒崎柵(荒崎城)で、約二〇〇年後の重直も隠居城として荒崎城に居ると云われ、これらの記述から見ると金成氏の本拠地が荒崎城にあったと類推できる。更に気仙金氏の流れを組むものと認知されている事実と重ねあわせると、今まで不明であった気仙金氏の嫡家は、仙台金成氏であると云える。

※ 金 俊網(彦三郎・新左衛門) 俊継の子     大崎家臣

年 代 詳細不明 永和年代
 金成邑荒崎柵(荒崎城)館主
 金成氏系図に永和三年(1377年)大崎左京太夫詮持に仕え采地百余町を賜り、金成荒崎柵(城)に居ると記載あり。

※ 金 重直・金(安倍)近江重直・・・・・・家紋は松川菱  葛西家臣

年 代 詳細不明 天正年代  葛西家家臣(復帰年代不明)
 天正七年(1579年)四月栗原郡金成邑・金成城(金田城)・南館主となる。
 天正九年(1581年)紹実に家督を譲り、隠居し大和と号す。荒崎城に移り、更に小迫
 城に移った。子は紹実、彦次郎の二子あり。

 カンナリ・ヤマト【金成大和】 武将。栗原郡小迫村西楯館主 年代不詳ならず。・・
 ・・・・・仙台人名大辞書
 金成大和(津久毛) 武将
 小迫西館の館主である。金成内膳の父とも伝えられている。・・・金成町史448頁

 東 館(小迫)
 葛西の臣、金成内膳の父金成大和の居城と伝えられる。・・・・・金成町史492頁
 西館城 東西七十二間南北三十九間
 右城主金成大和と申者之由申伝候内膳には父に御座候・・・仙台領古城書立之覚・・・
 ・・・・・・金成町史191頁

※ 金 内膳紹実 重直の長男(嫡子)  以下金成姓  葛西家臣

年 代 天正十八年(1590年)討死(高清水森原山)       出生年代不明

※ 天正八年 雲南天神社 ・・・・金成邑風土記(宮城県史 25 569頁
 「勧請 葛西家臣當村南館主金成内膳と申御方天正八年兩社共御勧請之由申傳候事」
「天正十八年庚寅秋八月葛西家没落ニヨッテ邑主金成内膳落魂ノ後ト雖モ祭田寺領ヲ収メ
別当宥遍シク三尊を以テ之ヲ御正体トシ金田寺清浄院ノ道場ニ奉安ス云々・延宝三年竜宝院承栄書上」・・・
・・戦国大名葛西氏家臣団事典・金成村風土記・東館清浄院書出注・文中魂の云の部は原文白である。

※ 金田八幡神社
一、劔 一振 長八寸三分  奈良行久作
 右ハ當村南館御主金成内膳様御奉納之由申傅候事・・・宮城県史25風土記金成村書上588頁
 
※ 天正九年家相続
 金(安倍)姓を改め、地名を以て金成を称す。後に金成右近太夫と改名した。・・戦国大名葛西氏家臣団事典

※ 橘冶兄弟の居館跡(八幡山)
「往古坂上田村麻呂が山城を築き、後に前九年の役に源頼義父子が在陣したといわれる。当時はこの地を金田の里と呼び金田城と称したという。
 またこの地で戦勝祈願をしたことから金田八幡宮の創建とした。八幡宮境内続きの丘陵辺りを東館といい本丸があった所としている。
 久安年中(1145~1151年)から文治中(1185~1190年)までの約30余年間、金売橘冶が住んだといわれている。二の丸を南館、三の丸を西館といい、そこには橘内、橘六が住んだといわれる。その後天正年中(1573~1592年)南館は金成内膳の居館になったという。」・・・金成町史480頁

※ 古城・金成城
  南館 二ノ丸 高貳拾七丈程  南北貳拾四間東西三拾壹間
 右館主ハ橘冶弟橘内ニ候由申傅候其後葛西家臣金成内膳ト申御方天正十八年迄御住居之由申傅御座候。但當時ハ畑ニ罷成居申候事・・・・宮城県史25風土記金成村書上574頁

※ 金成城 東西十一間南北四十間
 右城主金成内膳と申者罷在由御座候・・・・・仙台領古城書立之覚・・金成町史191頁

※ 金成内膳(金成) 武将
 大崎氏の家臣で金成館の館主である。主家没落とともに一時出羽最上領にのがれていたが、大崎一揆のち子孫は仙台藩に仕えている。・・・金成町史449頁(大崎家臣は葛西家臣の間違いでないか)

※「天正十八年八月十一日高清水森原山で討死する。金成館主金成内膳・畑館主畑對馬・藤渡戸館主有壁安芸」とある。・・金成町史に・・・・702頁

※ 天正十八年(1590年)
「秀吉仕置軍は、浜街道を桃生郡深谷に侵入したものと、本道筋を栗原郡三迫方面に進入したものとある。
 また本道筋の黒川から分進した一手は、登米郡中津山に進入した合戦は明瞭でないが、八月十一日頃より同十八日頃までの間に、二度三度激戦が展開されたが、装備の充実した西軍の前に一たまりもなかった。
 殊に葛西勢攻撃に向けられたのは、秀吉の中堅軍でも指折りの蒲生秀郷や浅野長政である。
 先陣浅野長政(この頃まだ長吉し称す、以下同)は、八月十七日磐井郡平泉に入り、同二十日には稗貫郡湯口に突入している。蒲生秀郷本陣は、八月一七日黒川郡に入り、その後加美郡中新田、栗原郡高清水に向かっている。・・・・」岩手県史第三巻709頁より抜粋

※ 中街道方面の布陣
 大将 千葉甲斐上胤衡  東山 薄衣城主 薄衣甲斐守胤勝
 旗脇 千葉大膳助胤村  東山 長坂城主
    昆野小次郎定住  東山 千厩城主
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    金成右近太夫
・・・・・・・・・・・・・・・・・
  都合千五百餘騎 栗原郡高清水森原山
  以上、岩手県史第三巻 706頁より抜粋

※ 金成彦次郎右近将監 重直の次男    葛西家臣

年 代 年代不詳

※ 遠野陣の失敗
「閉伊遠野十郎・釜石・大槌之領主、藤原藤太郎秀郷之末孫ニテ、遠野孫三郎三河守トテ横田之城ニ居住ス。葛西左京太夫晴信是ヲ責落サントシテ、三迫金成彦次郎右近将監ヲ向ケラル。散々打負ケ将監討死ス。是ヲ遠野陣ト云。」・・・・・奥州葛西記(前沢町郷土史・資料)

 次子彦次郎は金成邑長根館に住した。・・戦国大名 葛西氏家臣団事典 柴桃正隆著 198頁

※ 金成土佐 内膳の子

年 代 元和元年没(1615年)   年代不詳

 三代土佐の譜に、金成館陥落後、父子とも平城主岩城常隆の家臣となるとある。土佐はその後最上義光の家臣に転じ、天童加成邑に住み、加成と称した。

 「戦国大名 葛西氏家臣団事典 柴桃正隆著・仙台叢書 伊達世臣家譜 百五十一 金成」参照

≪ 考 察 ≫
 天童加成邑(山形)は調査の結果、過去・現在共に、その存在が確認出来なかった。

※ 金成隼人(彦兵衛) 土佐の長男     最上家臣

年 代 寛永二年没(1625年)   年代不詳

 元和八年(1622年)最上家改易後、同九年、十貫文で伊達政宗に鷹匠組とし仕え、正宗の命によって金成に復姓。

【葛西家臣、内膳・土佐・岩城と続き天正中土佐の子隼人、最上氏家臣となり、加成氏と改め、後伊達氏に仕え旧姓に戻る。】・・(子孫、金野氏古川市在住よりの書状による)・私本仙台藩士事典・坂田啓著・282頁 (但し、原文未確認)

 隼人お目見後奉公せぬうち病死。斎藤甚之丞の子甚蔵を娘婿にし、隼人苗跡たて甚蔵は鷹匠組奉公を命じられる。扶持高三貫三〇九文 召抱藩主 正宗

 長男重直は別家を立てる。
 寛文七年(1667年)子の彦兵衛が継いだ(家臣禄)。のち、同家は吉兵衛―吉兵衛―彦兵衛―甚蔵―八十八―長之助―金冶と続き、その跡、長之助は慶応四年(1868年・明治元年)六月二四日棚倉落城金山戦争で溺死。
 戦国大名 葛西氏家臣団事典 柴桃正隆著、私本仙台藩士事典・坂田啓著、宮城県姓氏家系大事典・仙台叢書等参照

《 考 察 》
 一般的に、隼人の死亡後に甚蔵が家督を継いだ様に云われているが、金成氏系図の寛永二年没と云いう記述を見ると、元和九年(1623年)に伊達家に出仕後二年たってから死亡している事になる。
 これらの年代記録を整合的に読み解くと、「隼人、元和九年伊達政宗にお目見後、奉公せぬうち病に倒れ、斎藤甚之丞の子甚蔵を娘婿にし、隼人苗跡たて甚蔵は鷹匠組奉公を命じられる。」となる。

※ 金成重直 隼人の長男

年 代 年代不詳
  元和九年(1623年)別家を立てる。 召抱藩主 正宗
  扶持高 五両八人  格式 広 間
  子孫金成三郎は赤井村、村長を務めた。
※ 金成善右衛門 土佐の次男
年 代 万治元年(1658年)江戸にて死亡。   年代不詳
  善右衛門は最上氏に仕え、元和九年(1623年)伊達政宗に召しだされ三両四人扶持で鷹匠組とし仕えた。
  寛永十四年1637年)隼鳥屋頭となる。
  万治元年、子の善右衛門が継いだ。(家臣禄)のち同家は成時―利成―善右衛門―善太夫―善右衛門―
 善十郎―善七―恭蔵と続き、善左衛門成次は脱藩、函館戦争に参加、後に西南の役(警視庁抜刀隊幹部)
 とし参加。明治十一年志田郡長となった。
 戦国大名 葛西氏家臣団事典 柴桃正隆著、私本仙台藩士事典・坂田啓著、宮城県姓氏家系大事典・仙台叢書等参照

※ 金 定俊(孫次郎) 俊清の子 右馬助(允) 仕・葛西高清

年 代 応永四年卒71歳  出生 嘉暦元年(1326年)

[[クリック・拡大]]

 金兵庫助俊継の弟右馬允定俊は、文和元年(1352年)東山千厩に移住しこの方面金野氏の祖となった。・・・岩手県史第二巻600頁 
 領・磐井300町
 気仙郡司、金俊長の長子に俊清の二男に、右馬允定俊がある。定俊は葛西高清に近侍して、文和元年(1352年)磐井郡に、采地三百餘町を給せられ東山千厩に居住するようになった。すなわち、定俊は東山金氏の始祖と称せられれている。子孫は金・金野・紺野・昆野を称するようになった。・・・・岩手県史第二巻895頁

※ 金 俊時 (右京孫三郎) 俊清の子
年 代 延文四年卒29(1359年)出生 元徳二年(1330年)
 「金家系譜」によると、金兵庫助俊清貞治六卒73(1367年)の三男、金右京俊時延文四年卒62(1359年)、薄衣郷の米倉に居住、米倉氏を称し、その跡を薄衣邨清村の二男持村が相続したとある。持村の室は米倉俊時の女であった。・・・・岩手県史第二巻963頁

≪ 考 察 ≫
 「金野系図」では俊時の死亡年代、年齢が延文四年、29歳で死亡と記述されているが、上記記述では延文四年、62歳卒と大きく隔たりがある。
 29歳で死亡したとするならば、生まれた年代は元徳二年(1330年)俊清36歳の時の子である。又、死亡年齢が62歳であるならば、生まれた年代が永仁五年(1297年)俊清3歳の子となり、死亡年齢62歳は間違いである。これは、気仙郡司・金四郎時俊の卒62歳と混同したものと思う。


※ 金 俊通(嬉四郎) 俊清の子  早世
年 代 貞和五年卒17歳(1349年)         出生 元弘二年(1332年)

※ 金 俊国(勝太郎) 定俊の子                  仕・葛西高清
年 代 康暦二年卒23歳(1380年)         出生 延文二年(1357年)
住 東山千厩

※ 金野持俊(彦次郎・初名俊寛) 定俊の子 右馬助       金野右馬助彦次郎
年 代 正長元年卒69歳(1428年)         出生 延文四年(1359年)
住 千厩金野氏祖

※ 金野俊安(孫四郎) 定俊の子 周 防 金野周防孫四郎 仕・葛西満信

年 代 永享三年卒67歳(1431年)         出生 貞治三年(1364年)
住 狼河原 狼河原祖 
領・狼河原200丁
 下奥玉金野系図(後註参照)には、金野周防俊安は嘉慶二年(1388年)2月葛西陸奥守満信に近侍云云とある。・・・・・・・岩手県史第二巻493頁

※ 金野安国(赤田五郎) 定俊の子
年 代 不詳
   葛西家人・赤田氏嗣子

≪千厩 金沢金氏系図≫ 奥玉村金一弥所蔵系図 ㋔奥玉村金野為雄所蔵系図参酌・・岩手県史第二巻

※ 金 国吉(勝太郎) 俊国の子 右馬助(千厩金氏三代目)仕・葛西詮清

年 代 永享二年卒52歳(1430年)        出生 永和四年(1378年)
 『下掲遺書状は、今右馬助より、中津山三郎衛門宛のもので、味方の敗軍を告げ、籠城も二三中で最早や落城の期の迫っている事、籠城討死を覚悟しているので、生前に虎之助に面談が出来ぬ事、よって刀一腰を虎之助に遺品として差遣す可く、「生長後宜しく御伝え願入り申候」と追伸している。従って虎之助は、幼児であると知られよう。諱に持字を用いている者に「持鹿」大永元年出生(1521年) 永禄十一年卒48歳(1568年)とあるが未詳である。

クリック・拡大

(東山天狗田金一弥所蔵文書)

 この合戦は、年代不明であるが、八月下旬に至って、籠城軍は既に陥落を覚悟している有様を告げている。桃生郡方面の合戦らしく、飯野川(桃生郡飯野川町)輪淵(同郡の和淵か)中津山(同郡の中津山)森山(不明)女川(牡鹿郡女川)等、何れも葛西領である。

 金家系譜には、金豊後守国支は、応永七年(1400年)の出生で、虎之助と称しており、父は千厩金氏三代目で右馬助国吉(永享二年卒52歳・1430年)であるが、何等の所伝がなく、金右馬助国吉は葛西伯耆詮清に出仕したことを伝えるのみである。(天文十七年の条挿入興国金氏系図参照)・・・・・以上全文・岩手県史第二巻 898・899頁

※ 金野国支(虎之郎) 国吉の子 金野豊後
年 代 嘉吉元年卒42歳(1441年)       出生 応永七年(1400年)
  興田天狗田金系図(後註参照)には、金野豊後国支は、葛西陸奥守満信に奉仕云云とあ
  る。・・・・・岩手県史第二巻492頁

※ 金野爲国(芋川左仲)
    上杉憲基家人  芋川定七郎嗣子

※ 金野国定 国支の子      金野右馬允       仕・葛西備後守信宗
年 代 永正十年卒89歳(1513年)     出生 応永三十一年(1424年)

※ 金野俊祐(千田丹治) 国支の子
   千田伊織□胤子

※ 金野国家(次郎八郎・市太郎)国定の子 金野豊前     仕・葛西伯耆守持信
年 代 大永元年卒72年(1521年)       出生 宝徳元年(1449年)

※ 金野持家(十三郎) 国定の子    金野右膳

※ 金野是鹿(次郎・右近・初名是国) 国家の子 金野豊後  仕・葛西晴胤

年 代 天文十一年卒69歳(1542年)      出生 文明六年(1474年)

[[クリック・拡大]]

大永六年(1526年)の冬、東山千厩の地頭金野豊後是国は、葛西家の使者として上洛した。在京中将軍の狩猟あるに会し、鹿三頭を射て賞せられ、将軍義晴の命で、是鹿と改名、家紋にも鹿紋を使用するに至ったと伝える。・・・・安倍姓金家系譜

千厩今野氏は、気仙郡司安倍爲時の後流、千厩金沢館城主と伝えており、狼河原金野氏と同じくしている。天文十七年条挿入。金野系図参照 
 大永六七年は、葛西太守は晴重(初重信中頃稙信)の代に相当するが、晴胤も四十歳前後であろう。・・・・・・・岩手県史第二巻759頁

※ 金野国季(三十郎) 国家の子     金野右門

※ 金野重鹿(勝太郎)  是鹿の子      金野主馬
年 代 天文十一年卒69歳(1542年)  出生 明応三年(1494年)
梁川出陣

[[クリック・拡大]]

※ 金野政鹿(与四郎) 是鹿の子   金野与四郎
年 代 永正十三年討死21歳   出生 明応四年(1495年)

※ 金野重安(勝太郎) 重鹿の子   金野右馬允
年 代 年代不詳
住 千厩金沢城主

※ 金野持鹿(小次郎) 重鹿の子   金野豊後  仕・葛西家
年 代 永禄十一年卒48歳(1568年) 出生 永正十七年(1520年)

※ 金野重教    重鹿の子   金野采女
年 代 正十八年没落後行方不知
注 正十八年とは、天正十八年の事か?(1590年)

※ 金野信鹿(満五郎) 持鹿の子 金野豊後助 

仕・葛西晴信・賜謁
年 代 慶長五年卒60歳(1600年) 出生 天文十年(1541年)
室 及川遠江頼直の女

『元亀三年二月(1571年)、下奥玉邑主金野信鹿(伝五郎豊後助)は、葛西太守晴信より、所領の安堵を公認された。信鹿の父持鹿は、千厩金沢館城主金野右馬馬允重安の弟で、下奥玉に采地七十余丁を領地したが、永禄十一年二月三日(1568年)48歳で卒去した。文中、「先規の如く譲状に任せ」とあり、持鹿の譲状に拠ったと考えられるが、父の卒去五年目である。豊後助信鹿は、この時32歳であろう。その系譜には次のごとく伝えている。(興田・天狗田、金一弥所蔵系図による。金野系図は天文一七年の条挿入参照せよ。)

[[クリック・拡大]]

 金野・紺野氏を称し、金氏をも称し現在は金(こん)氏を称している。この系譜は元禄享保頃の調成らしい。金野氏系譜中、良本の一つであり、この外同家には「紺野由来記」一冊があり、近世この家を中心とした親類血族の分布を詳細に調査したもので貴重である。同家は元禄頃よりタバコ紅花などの交易をやり産をなし、文政頃は、東山北方大肝入を勤務している。系譜には信鹿を満五郎に作っているが、晴信状には伝九郎とある。・・・岩手県史第二巻1045頁


※ 金野敏鹿(満六郎)  持鹿の子    金野数馬
年 代 天正十九年討死47歳(1591年)          出 生 天文十三年(1544年)

※ 金野頼敏 持鹿の子      
 及川下総・天狗田内膳   及川上総頼尚養子

※ 金野俊鹿 持鹿の子          金野但馬
  没落後・住・猿沢

※ 金野国鹿(助兵衛) 信鹿の子     金野助兵衛
年 代 寛永十六年卒85歳(1639年)   
出 生 天文二十三年(1554年)

※ 金野清鹿(助左衛門) 信鹿の子           金野内蔵助助左衛門
年 代 元和元年卒59歳(1615年)       出生 弘冶二年(1556年)
室 松川村・千葉胤元の女

※ 金野冶鹿 信鹿の子                  金野又五郎
年 代 不詳
住 古 戸

※ 金野実鹿 信鹿の子                  金野蔵人
   没落後行方不知


※ 金野龝鹿(勝三郎) 清鹿の子             金野助兵衛
年 代 明暦三年卒78歳(1657年)       出生 天正七年(1579年)
室 鳥海・千田大隅の女

※ 金野俊鹿 清鹿の子                  金野久右衛門
住 古 館

※ 金野秀鹿 清鹿の子                  金野四郎兵衛
住 松 川
※ 金野持鹿(庄三郎) 龝鹿の子             金野市郎右衛門
※ 金野男鹿      龝鹿の子             金野助右衛門
※ 金野持直      龝鹿の子             村上右衛門
※ 金野胤鹿      龝鹿の子             千田勘右衛門
※ 金野持祐      龝鹿の子             金野十左衛門
※ 金野敏鹿(満六郎)  持鹿の子            金野数馬

≪金野系図≫ 東磐井郡奥玉村金野為雄所蔵・明和四年(1767年)・・・岩手県史第二巻

[[クリック・拡大]]

「千厩・金沢金氏系図」では、持俊・俊安は定俊の子としているが、「金野系図」は俊継の子としている。この二説の内、本系譜は「千厩・金沢金氏系図説を取り入れ合成する。その根拠は、石越村史に由来する。

※ 金野俊直(弥次郎) 俊安の子      右馬允
年 代 長禄三年卒63歳(1459年) 出生 応永三年(1396年)

※ 金野俊冬(弥四郎) 俊直の子      兵 庫
年 代 延徳元年卒61歳(1489年) 出生 正長元年(1428年) 
           
※ 金野俊真(孫次郎) 俊冬の子      右 近
年 代 大永二年卒58歳(1522年) 出生 寛正5年(1464年)  

※ 金野信俊(弥次郎) 俊真の子か?
年 代 永享二年卒67歳(1430年) 出生 貞治二年(1363年)

 信俊、永享二年卒67歳では年代が合わない。これは、年号が永禄の写しが間違いであれば、    
永禄二年卒67歳(1559年) 出生 明応元年(1492年)となり、俊真28歳の時の子で、整合性がとれる。

≪登米郡 狼河原 金野氏系図

 奥玉村金野為雄所蔵「安倍姓金家氏系譜」岩手県史第二巻 

金野氏系図」では、俊盛・爲次で記録が途絶えているが、「狼河原・金野氏」の系図は、それ以降も記録されているので、俊賢以降は「狼河原・金野氏の記録を合成する。


※ 金野俊賢  信俊の子      金野越後俊賢

年 代 元亀元年卒62歳(1570年)  出生 永正五年(1508年)
住 登米郡狼河原邑主   金野周防俊安・七代ノ孫
      
※ 金野俊永(次郎) 俊賢の子   金野和泉左衛門 仕・葛西晴信
年 代 天正十八年葛西氏没落後帰農 

[[クリック・拡大]]

 この年の富沢直綱の兵乱は、他の支証を見ないが、天正五年には、流の寺崎と出入し、天正七年には大きな兵乱に発展する。  
     
 金野俊永は、登米郡狼川原の士である。始祖周防俊安は、千厩金沢の金野氏の分族であり俊永は七代の孫である。俊永は天正十六年の浜田乱にも参陣戦功を立てたが、同十八年葛西氏の歿落によって浪人し、同地に帰農した。その子爲永の室は、大籠左沢の佐藤対馬の女とある。居住地の関係上、金野爲永以降は、馬籠及び大籠左沢の佐藤一族との婚姻関係は濃かである。(註1)岩手県史第二巻1095頁
(註1)安倍姓金家氏系譜  下奥玉下町 金野為雄所蔵

天正十六年(1588年)・気仙兵乱(気仙表六月の戦闘)参軍

クリック・拡大

 戦功諸士への加増

 登米郡 吉田郷 二千刈 金野次郎左ヱ門尉(軍功者)・岩手県史第三巻153頁

[[クリック・拡大]]

※ 金野俊行(太兵衛) 俊盛の子
 年 代 不 詳
「登米郡・狼河原・金野氏系図」は馬籠大紫住・佐藤筑後養子と伝える。

※金野俊久 俊盛の子       金野与五右衛門
            
※ 金野俊道 俊通の子      金野伝右衛門
年 代 正徳二年卒87歳(1712年) 出生 寛永二年(1625年)
            
※ 金野爲俊 俊通の子      金野金右衛門
年 代  不 詳

※ 金野俊元 俊通の子      金野清次郎
年 代 不 詳

※ 金野爲冶 爲次の子      金野新右衛門
年 代 不 詳
            住 大柄沢

※ 金野爲連 爲次の子                 金野平右衛門
年 代 不 詳

※ 金野爲片 爲冶の子                 金野長右衛門
年 代 不 詳

※ 金野俊高 爲冶の子                 金野甚三郎
年 代 不 詳

※ 金野爲連 爲次の子                 金野半右衛門
年 代 不 詳

※ 金野俊仲 爲連の子                 金野勘右衛門
年 代 不 詳

※ 金野爲仲 爲連の子                 金野卯右衛門
年 代 不 詳

※ 金野爲之 爲連の子                 金野文内
年 代 不 詳

※ 金野爲春 俊仲の子                 金野惣右衛門
年 代 不 詳

※ 金野俊冶 俊仲の子                 金野加兵衛
年 代 不 詳

※ 金野俊氏 俊仲の子                 金野甚六
年 代 不 詳


浜田金氏系図≫ 原文は立根堀之内金野仁衛所蔵(米崎及川与惣治写本による。原文には糸が引いていない)

 永禄元年(1558年)九月、気仙浜田の日高城主、金冶部少輔安倍爲国は二男爲芳吉と共に、郡北の立根邑に転住したと伝えている。爲国の祖父爲村は、浜田郷三百五十貫文を領知していたという。それが爲国の代、浜田を浪人し、立根に転住したが、事情が判明しない。・・・・岩手県史第二巻963頁

[[クリック・拡大]]

クリック・拡大

原文は縦書)・葛西家が朱印を使用したことは未見である。及川与惣治採訪気仙史料原立根堀之内金野仁兵衛所蔵とある。

 永禄中、立根の舞良には、気仙郡司庶流の金野時清筑前守が居住している。(後節天正二年の条挿入。米崎金氏系図参照せよ)。
その所縁に頼り移住したものであろう。
 浜田在住時代の四分の一の所領となっている。
六町一里と換算せば、南北九十町、東西九十八町とあって、後世の立根村全域に該当しょう。田畑等耕地三十五貫文、川・山林等の非耕地六十貫文等の割合も順当であろう。

 この頃、田茂山城主は刑部少輔長綱(元亀三卒69・1572年)の代であり、猪川新沼氏、赤崎新沼氏等在住しているが、それら等の関係は判明しない。爲国四代の孫、采女爲春の譜に、「同郷立根村、舞良屋敷居住、牢人ニ罷成候事」とある。天正十八九年(1590・1591年)の葛西家没落のことであろうか。・・・岩手県史第二巻964頁

※ 金 爲村 安倍姓          金土佐安倍爲村

年 代 不 詳
住 正慶二年(1333年)以降、浜田郷日高城居住
領 浜田郷知行350貫文
 『金土佐安倍爲村。正慶二年(1333年)鎌倉将軍守邦親王歿落之後、気仙郡浜田郷日高城居住仕候。当郷知行三百五十貫文也』立根堀之内金野系譜・・・岩手県史第二巻600頁

※ 金 爲時 爲村の子 安倍姓            金佐渡守
年 代 不 詳

※ 金 爲国 爲時の子 安倍姓            金冶部少輔
年 代 永禄年代
住 永禄元年(1558年)より立根邑

※ 金 爲吉 爲国の次男 安倍姓           金 土佐守
年 代 不 詳
住 永禄元年(1558年)より立根邑

※ 金 爲兼 爲吉の子  安倍姓           金 越中守
年 代 不 詳
住 立根古館居住

※ 金 爲春 爲兼の子 安倍姓            金 采女
年 代 不 詳
住 立根舞良屋敷居住・牢人

※ 金 爲次 爲兼の二男               昆野二兵衛
年 代 不 詳
住 田稲関口屋敷居住・牢人
            
※ 金 爲重 爲兼の子                金野仁左衛門
年 代 不 詳
住 立根堀之内屋敷居住・牢人

※ 金 爲次 爲重の子                金野仁右衛門
年 代 慶長年代・慶長一八年(1613年)帰農
住 堀之内屋敷住・寛永十五年(1638年)現在

≪中山金氏系図≫ 米崎浜田館下金藤五郎所蔵系図・岩手県史第二巻600・601頁

[[クリック・拡大]]

 文明三年(1471年)二月、気仙郡の金野出雲守時弘は、葛西朝信に仕え、立根舞良の郷に住して、食邑二百余町を領知することとなった。時弘は、始め弥三郎と称し、金野出羽守時親の三男である。金野氏は、気仙郡司金氏の裔と伝えるが時弘以前の事蹟は不明である。右馬助爲俊(四郎建久二卒53・1191年)より 
爲弘―時宗―知義―時斉―時明―爲光―時親と家を継いでいる。

『金野系図』に
クリック・拡大
  原文縦書き、「金野氏家譜記」立根舞良。金氏蔵及川与惣治採訪

これと系統を同じくものに、「米崎館ノ下金氏系図」があり、
クリック・拡大
  【浜田館下金藤五郎所蔵系図】

 気仙郡には、古来から安倍姓の金氏が居り、郡司を世襲していた。然るに、金右近太夫俊長元徳二年(1330年)四月十日卒六七を最後に郡司の名は系譜にも消えている。更に俊長から俊清・俊継と続きその嫡系の家が不明となっている。
 金兵庫助俊継の弟は、文和元年(1352年)東山千厩に移住し、この方面金野氏の祖となった。かくて南北争乱の際気仙郡司金氏は、幾つかの家に分かれたらしい。

 中山館金氏の外にも、金氏の裔と称するのは、浜田郷の日高館に居住している。
「金土佐守安倍爲村。正慶二年(1333年)鎌倉将軍守邦親親王歿落之後、気仙郡浜田郷日高城居住嗣仕候。当郷知行三百五拾貫文也」立根堀之内金野系譜とある。中山館金氏以外にも金氏の存在を支証しているが、全体としては金氏一族の衰微を示すものであろう。

 気仙郡には、建武年間(1334-1337年)、本吉郡馬籠城より千葉氏が来往し、高田氏・浜田氏・矢作氏・長部氏・小友氏となり、広田湾周辺が、千葉一統の繁衍す る地帯となるから、従前の金氏に代わってこの方面を制圧する結果となった。従って中山館に居住した。
 金時弘は、祖業を挽回した気仙金氏中興の人であろう。天正二年(1574年)の条挿入金氏系図を参照せよ。
  金時弘には男子二人は知られ、長子時尚は中山館を継ぎ、次男時晴は立根舞良に独立した。気仙金氏は本姓安部氏後金氏に改めた。この金氏の分流に、金野氏・今野氏・紺野氏・昆氏などが派生し、県南に広く分布しているが、その嫡宗の家がどの家であるか判明しない。・・岩手県史第二巻600・601頁

※ 金 爲弘(高日太郎)            金大和守
年 代  不 詳 
※ 金 時宗(百勝丸) 爲弘の子       金伊勢守
年 代  不 詳
※ 金 実信 爲弘の子            八萩二郎
年 代  不 詳
※ 金 時信 爲弘の子
年 代  不 詳
※ 金 知義 時宗の子             金駿河守
年 代  不 詳
※ 金 時斉(次郎) 知義の子        金次郎左衛門尉
年 代  不 詳
※ 金 勝由 知義の子
年 代  不 詳
※ 金 時明 時斉の子            金大右衛門尉
年 代  不 詳
※ 金 勝時 時斉の子
年 代  不 詳
※ 金 正行 時斉の子
年 代  不 詳
※ 金 爲光 時明の子
年 代  不 詳
※ 金 時親 爲光の子            金出羽守
年 代  不 詳・爲俊より九代の裔

「米崎館ノ下金氏系図」に爲俊九代金野出羽守時親とあり、気仙郡司、従六位下右馬助・金十郎四郎爲俊・(嘉禄元年卒61・1225年))の事と思うが、前記文中に右馬助爲俊(四郎建久二卒53・1191年)とあり、十一代気仙郡司、金爲俊と別人であろうか。どの系図にも現れていない。同人なら「建久二年卒53・1191年」は誤記である。

※ 金 時房 爲光の子            金 帯刀
年 代  不 詳
※ 金 時依 爲光の子            金 真之佐
年 代  不 詳 

※ 金 時弘(弥三郎) 時親の三男      金 出雲守  仕・葛西朝信
年 代  文明年代(1469-1486年) 
住 立根村舞良郷・中山館

領 二百餘町「金野系図」・・「金野氏家譜記」立根舞良・金野蔵氏及川与惣冶採訪による。
  五百餘町「米崎館ノ下金氏系図」・・浜田館下金藤五郎所蔵系図による、と二説ある。

≪米崎館下金氏系図・・岩手県史第二巻1067~1069頁

[[クリック・拡大]]

 天正二年(1574年)三月、気仙浜田郷の中山館、金卯之丸は、その相伝の地中山邑の相続を容認された。金尚義の遺領であろう。(金時弘までの系図は文明三年の条挿入系図参照せよ。)
 中山金氏の系譜は、明詳を欠くが、金出雲守時弘は葛西朝信に出仕、時弘・時尚・尚義と伝えたものらしい。尚義の事跡を欠くが本吉郡兵 乱に殞命したことも考えられる。
クリック・拡大

 始祖、出雲守時弘の所領、文明三年(1471年)、二百町拝領とも五百町拝領ともあって一致しないが、葛西家よりの采地は山野を含むのは常例である。

 したがって金卯之丸の居住する中山館近傍一字であり、先規の如くく親の所領を安堵せしめた事が察知させる。中山金氏系図では、卯之丸は後の筑後守時晴であると伝えている。

 時晴には、豊前守爲勝(幼名・卯之助)・采女時雄(幼名・卯登松)の二子があり、天正十九年(1591年)八月、父子三人桃生郡深谷に参陣して時晴は討死したが二人は父の遺命によって、葛西家の若君を守護して戦場を脱走、後年葛西家公達の仙台候出仕後、故郷に還住、帰農した所伝がある。

 中山金氏系図では、金卯之丸を後の築後守時清としているが、どうであろう。金時清の嫡子は豊前守爲勝であり次男が采女時雄であるとするが、立根舞良金野氏の系図にも、幼名を卯登松と称した金野采女時雄なる人があり、しかも中山金氏の分族の家である。すなわち両者が同一人で、中山家から舞良家を相続したかの疑いがある。

[[クリック・拡大]]

中山館金氏は、気仙郡司を世襲した金氏の分族と知られるが、その世系や事蹟は、不明の点が多く、殊に筑後守晴清以前の事蹟は判明せず、舞良金野氏所伝と一致しない。

 金時弘の裔は、中山館及び、立根村舞良に居住し、後世両家に分かれたが、世系の所伝は各々異り、殊に歿年や年齢に不審がある。中山館金氏は時弘⇒時尚⇒尚義⇒時清⇒爲勝で、爲勝の弟に金采女時雄(幼名・卯登松と云)とするが、舞良金氏では、時弘・時清・時雄(幼名・卯登松と云)し記してある。

 是を検討すると舞良系譜は筑前守時清を時弘の二男とするのに、歿年を天正十八年(1590年)とし、年齢七十二歳としてあって永正十六(1519年)の誕生となる。

 又、金采女時雄を時清の嫡子と記すが時雄の死没を明暦元年(1655年)八十八としてある。すなわち永禄十一年(1568年)の誕生となり、時清五十歳の子となって老齢の憾があり、時清の前後に世代の脱落が考えられる。

 舞良金筑前守時清と中山館金筑後守時清は同一諱名であり、両者系図に錯綜があるらしく、不審が多い。舞良系図の采女時雄と館下金氏の采女時雄も同名であり、舞良の采女時雄なら天正二年(1574年)七歳となり、爲勝の実弟に擬してもよい。

 舞良系図に、

クリック・拡大

とあるが、時弘二男の裔と解すべきであろう。時清は、嫡家中山館の伊豆助尚義の家名を継ぎ、二男卯登松をして舞良の家を継がしめたとしても、天正二年の金卯之丸は、時清でなく、嫡男爲勝などに相応しくなって来る。

○ 中山金家に、爲勝晩年の遺言書と称するものがあり、慶安元年(1648年)正月の奥書を有している。米崎村誌に全文掲載されている。その中に父の遺命により深谷脱走一件を伝える。

※ 金 時尚 時弘の子
年 代  不 

※ 金 尚義 時尚の子        金伊豆助尚義
年 代  不 詳

※ 金 広義 時尚の子        宍戸丹波守・爲養子
年 代  不 詳

※ 金 時興 時尚の子        遠 江
年 代  不 詳

※ 金 直房 時尚の子        胆沢伊勢守養子
  年 代  不 詳

※ 金 時清(幼名・卯之丸) 直義の子 金筑後守
年 代 天正十九年(1591年)深谷討死
住 中山館

※ 金 爲勝(卯之助) 時清の子    金豊前守
年 代  不 詳

※ 金 時雄(卯登松) 時清の子    金采女
年 代  不 詳

※ 金 爲住(与五郎) 爲勝の子
年 代  不 詳

※ 金 爲世 爲勝の子        新沼家養子
年 代  不 詳

≪立根舞良金野氏系図

※ 金野時清 時弘の二男           金野筑前守
年 代 天正十八年卒72歳(1590年)      出 生 永正十六(1519年)
住 立根舞良郷
 金時清(金筑後守)と同一人物か?

※ 金野時雄(幼名・卯登松) 時清の子     金野采女
年 代 明暦元年卒88歳(1655年)       出 生 永禄十年(1567年)
住 立根舞良郷

※ 金野茂右ヱ門(六郎兵衛) 時雄の子     金野越後
年 代 万治二年卒72歳(1659年)       出 生 天正十五年(1587年)
 大肝入役

※ 金野茂左ヱ門 時雄の子           別 家
年 代  不 詳

※ 金野与七郎 時雄の子            別 家
年 代  不 詳

※ 金野善兵ヱ 時雄の子            別 家
年 代  不 詳
 
※ 金野茂兵 茂右ヱ門の子
年 代  不 詳

※ 金野与八郎 茂右ヱ門の子
年 代  不 詳

※ 金野与吉 茂右ヱ門の子          金野与右衛門
年 代 元禄十五年卒70歳(1702年)      出 生 寛永九年(1632年)
住 猪川

≪諸資料の金・金野・諸氏≫ 

≪石越村史≫

※ 金右京直安    近江重長の子
年 代 天正四年八月卒七九歳(1576年)   出 生 明応六年(1497年)

※ 金 助十郎信俊  直安の弟
年 代 年代不詳

石越村史より・・・・668頁
『・・・・天文二十三年九月(1534年)故アリ郷里ヲ出テ伊達郡等ヲ経歴シ後本村羽籠ニ来リ住ス弟助十郎信俊ハ葛西晴信ニ仕フ元亀二年七月(1571年)晴信大崎氏ト佐沼ニ戦ウ信俊戦功アリ気仙郡四千刈ノ地賜ルトイフ・・・・・・』

石越村史より・・・・85・86頁抜粋
葛西大崎氏の抗争 高橋多吉氏編 登米郡の歴史から
西 暦   年  号        摘     要
・・・・           ・・・・・・・・・
1571年  元亀二年   葛西晴信大崎氏を攻め佐沼で破る。
・・・            ・・・・・・・
   
石越村史より・・・・86頁
天正3年(1575年)石越村同列衆(葛西時代の肝入)      明暦2年(1656年)同列衆(肝入)
塩淵 主殿                   柳沢   源助(清水氏)
(天神堂)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
弥惣 戸々      左馬     左馬         彦左衛門(佐々木氏)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
椚崎 但馬    次左衛門     但馬         久 蔵(千葉氏)    
羽竜 加賀     右京      加賀         次右衛門(金氏)
登戸 弥惣                        弥 惣(金氏)
・・・                                ・・・・
十一人                                十二人

≪戦国大名家臣団事典 東国編 山本大・小和田哲男・編 新人物往来社≫

葛西氏・・・・・・柴桃正隆  
※ 金 爲時(こんためとき)
 陸前高田市米ヶ崎町野沢「浜田城」城主。「金系譜」に始めは阿部氏、源頼義・義家の奥州征伐に従いこの地に土着、藤原氏の支配に入り、のち金と改名、南北朝期に葛西氏に帰属した、とある。

※ 今野右馬丞貞澄(こんのうまのじょうさだすみ)
 東磐井郡千厩町町裏の「千厩城」城主。
「古城書上」に名が見える。「金野系図」には、城主今野弾正左衛門で、葛西家滅亡時の当主は金野右馬丞貞澄なり、とある。「葛西実記」に森原山布陣の一人に東山千厩城主・金野小次郎定住の名が見える。前者と同一人である。深谷事件の犠牲者として、昆野数馬鹿長という者も登場する。(伊達秘鑑)。

※ 今野左京(こんのさきょう)
 気仙郡住田町下有住の「外館城」城主。
「古城書上」にその名が見える。実名不詳。

※ 今野助九郎(こんのすけくろう)
 陸前高田市長部二日市「二日市城」城主。
「古城書上」・「風土記」ともに、今野助九郎、同内膳深谷において誅せらる、と深谷における謀殺を記録している。「伊達秘鑑」には、今野九郎とある。「葛西家臣座列」に詰衆一家とて書かれる草野藤右衛門(長部)は今野の誤りか?

※ 金野遠江(こんのとおとうみ)
 気仙郡三陸町陵里石浜「槻館城」城主。
「古城書上」に今野遠江、その子・信濃が居住、とある。実名不詳。

※ 金野時弘(こんのときひろ)
 大船渡市立根川原の「川原館」館主。
「岩手県史」に「立根館」として、永禄年間、金野氏住み九十五貫、文明三年(1471年)金野時弘住み二百余町歩、と書いている。

※ 今野土佐守(こんのとさののかみ)
 東磐井郡千厩町神子の沢の「清水森館」館主。
「風土記」に葛西家臣。今野土佐守とある。千厩今野

≪岩手県姓氏歴史人物大辞典・・・角川書店≫・・・・150・151頁

※ 金 采女(きんうねめ)1567年(永禄10年)~1655年(明暦元年)戦国武将
 気仙郡立根村(現、大船渡市)の舞良館(川原館)に拠った地頭で、伊達氏の白石攻めに参陣した気仙三六騎の一人。舞良家譜には、采女は乗馬と鉄砲の名手で、御前でその秘技を披露した際褒められ、那須与一になぞらえ与七郎の名を賜ったと記される。それ以来、子孫名には与の一字を付けることにしたという。

※ 金 新助(きんしんすけ) 生没年不詳。馬術巧者。
 名を広正という。宝暦年間(1751~1761年)の遠野南部氏家臣で、外川氏初代である金新助の後裔を用命された。藩主南部利雄(としかつ)の江戸からの帰国に供奉した遠野領主南部義顔(よしつら)に求められ、伊達丸山大鳥城跡(福島県)の急坂を騎馬で登り降りる妙技を披露して一行の喝采を浴び、義顔も面目を施したといわれる。

≪金成町史≫・・・・482頁

※ 金 忠輔   年代不詳
 高見山の古塁(金成と津久毛の境)
昔、大崎氏家臣の城址であったが、後金忠輔(又は金氏説あり)の居館になつたこともあると伝えられる。

≪参考文献≫

※ 岩手県史 第一・二・三巻
※ 日本歴史地名体系 三 岩手県の地名
※ 石越村史・・・現・石越町史・資料編
※ 戦国大名家臣団事典 東国編 山本大・小和田哲男編 新人物往来社
※ 戦国大名 葛西氏家臣団事典 柴桃正隆著 
※ 岩手県姓氏歴史人物大辞典  角川書店
※ 金成町史
※ 岩手県神社名鑑  岩手県神社庁

powered by Quick Homepage Maker 4.91
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

UA-20171847-1